エッセイ

耿さんの日々

一日の終わりに

 講演の後、懇親会を早めに抜け出して馴染みの店に寄った。他の客はいない。
「いらっしゃい」

マスターの静かな声が張り詰めていた肩を少しばかり解してくれた。
「さっぱりしたのを、ね」
「大分飲んできたんですか」

頭だけ頷いて、カウンターに頬杖を付いた。馴染みと言ってもこの店には月に二、三度も来るだろうか。大概は宴席の帰りに頭に溜まった喧騒を捨てに寄るのである。マスターも心得ていて、そんなときは余り話しかけてこない。酔いの酷いときには、
「今日は水だけにしておきなさい」

と言ってくれる。私も素直に従う。
「こういうの、如何ですか」
「なんなの、これ」
「名前はまだ無いんです。オリジナル」

炭酸の中に辛味の効いたその飲み物は、期待通りに爽やかだった。一口飲むと、ついさっき浴びせられた厭味な一言が頭の隅から掻き出され、泡とともに昇華した。思わず溜息をついた。

  「お忙しそうですね。」

そう、確かに忙しくなった。疲れてもいる。新年からこっち、色々と頼まれることが多くなった。しかもそれくらいなら何とかなると思って引き受けた役にとんでもない当て職が付いていて、出張や会合が増えた。頭の整理が付かない。自分には多くのことを同時にこなせる能力は無い、と自覚し慎んでいたつもりだったが、つい気が大きくなってしまったらしい。忙しくなるとスケジュールを追いかけることに汲々として周囲が見えなくなり、自分自身まで見失いそうになる。何よりも自分と一緒に働いてくれる人々や家族も忙しいんだということを忘れてしまうのが一番怖い。自らに言い聞かせて、ぐっと一口。

この間も妻に忠告を受けたばかりである。最近子供たちに声をかけなくなった、日々の言葉にゆとりが無くなった、と。いささか憤慨したが、冷静に見直すといくつか思い当たる。奥方の慧眼に敬意を表して、さらに一口。

先ほど難しい話をしていた講師の顔が浮かんできた。最近はこらえ性がなくなって、講演の途中によく居眠りをする。困ったものだと思うが、どうにもならない。特に専門用語で塗り固めたような今日の内容では訊いているのにも疲れる。プロなら聴衆に居眠りをさせる話し方をするな、と毒づいて、もう一口。

講師の話よりも難しい質問をしていた男性の横顔がぼんやりと現れた。彼も同じ世界の人間なのだろうか。あの異星人に乾杯。
「なに笑ってるんですか」

とマスター。どうやらひとりでに口元が緩んでいたらしい。
「いやらしいな、一人でニタニタなんて」
「自分を笑ってるだけですよ」
「おっ、シニシスト。ニヒリストと言ったほうが良いかな」
「ただのオプティミストですよ。それよりもね……」

と話を壁に掛けた版画に向けていく。少しずつ口が軽やかになり、言葉と一緒に頭の中に溜まっていたゴミが吐き出されていくのが分かる。

暫くすると客が入って来た。なんと、先程の講師と異星人である。異星人は、意気投合したのか盛んに講師にへつらっている。知らん顔をしていたが、つい講師と目が合ってしまった。頷くように小さな挨拶を交わした。
「先程いらっしゃった方ですね」

講師から話しかけてきた。
「よくお分かりですね」
「ええ、一番前の席でお疲れのようでしたから」

カウンターの中でマスターが堪らずに噴き出した。ごくりと唾を飲み込んで、
「私のような頭の悪い人間には難しくて」

隣の席で異星人がニヤニヤしている。癪に障るので、
「一つだけ質問があるのですが……」

記憶の中に残っている幾つかの言葉を無理やりつなげて聞いてみた。講師は驚いて、
「核心を突いていらっしゃる。全部ちゃんと聞いていらっしゃったんだ」
「そうでは無いですが、理論や仮説ばかりで経験の裏づけが薄いようでしたので」
「いや、御見それしました」

何とか凌いだ。異星人が驚いた顔をしているのが小気味よい。頭の中の掃除はすっかり行き届いた。そろそろ潮時だろう。立ち上がるとマスターが、
「お気をつけて」

迎えたときと同じ声で送ってくれた。今夜は心地よく眠れそうだ。