エッセイ

耿さんの日々

三十周年

「着物だけじゃなく、帯も草履も付けて買ってあげる。そのうち……」

昔、そんなことを言った記憶がある。結婚して子供が生まれ、二人して育児に必死で取り組んでいた頃だった。近くのショッピングセンターへ出かけ、むずかる子供を交代であやしながら買い物を済ませた後に和服売り場の前を通った時、かみさんがふいに立ち止まった。そしてマネキンの着物を見ながら、
「いいなあ」
と呟いたのである。その時、調子を合わせて軽い気持ちで口から出たのだが、かみさんも、我が家の収入がそれほど多くないことを充分解っていたから、
「そのうちね、楽しみにしてる」

七桁の価格のついた和服を横目に見ながら、急ぎ足でその場を去った。それきり、私はすっかり忘れていた。ところが、かみさんはしっかり覚えていたのである。

二十年ほど後、遠くの親戚で祝い事があり呼ばれることになった。着る物のことで、女性は留袖が良いだろうと年配の方からの助言をいただいたものの、さて、と迷った。
「結婚式場なんだから、貸衣装くらいあるだろう」
するとかみさんは暫く私の顔を覗き込んだ後、
「ずっと前、買ってくれるって言ったわよね」
 引き出しの中身をいきなりぶちまけるようなことを言う。
「えっ」
と聞き返すと、
「忘れてたの?」
うっすらと頬笑みを浮かべたその顔には、「矢張り」という文字が浮かんでいた。
「いや、でも持ち歩くのも大変だし……」
しどろもどろの言い訳をしながら、私もぶちまけた中身からぼんやりとそのメモを見つけ出したものだから、
「ごめん」
小さな声で謝った。
「いいの。持って歩くのも大変だし、貸衣装にしましょう」

その時はそれで収まった。けれど、後はどこへ出かけても割れたガラスの上を裸足で歩くようなもので、心にちくちく刺さり、何時か深手を負いそうな気がした。幸いなことに経済的には少し余裕もでき、七桁は無理としてもその半分くらいならどうにか都合をつけられるようになっていたので、
「買いに行くか」
と覚悟を決めて声をかけた。ところが今度はかみさんの方でなかなか首を縦に振らない。今必要ないから、子供が進学するから、家のローンを先に済ませましょう、などいろいろ理由をつけて先延ばしにしようとする。
「遠慮しなくても良いんだ」
こちらも、いい加減痺れを切らして言うと、
「何としても欲しい訳じゃない。買って、もうこれで約束を果たしたと思われるより、忘れていたことを一生重荷にしてもらった方が良い」
 にこやかに、でもとても厳しいことを言う。それ以来、着物屋の前を通る度、二人で目配せして苦笑するようになった。

今年は結婚して三十周年である。記念に、奮起して大きな真珠のアクセサリーを贈ることにした。それも、保証書のついた、金色に輝く外国の名産品である。

かみさんはとても喜んだ。身につけて何度も鏡を見たり、実家の親に見せに行ったり、つけるために出歩くことが増えたのではないかと勘繰りたくなるくらいである。随分気に入ったらしい、と安堵した。でも、時々私に向ける視線の中には、
「これが替わりだなんて勘違いしないでね」
という言葉が隠れているように思えて仕方がない。