モン・サン・ミッシェル


 パリから四時間あまり走り続けてバスはようやく目的地に着いた。世界遺産に指定されてから何度かテレビの特集や観光案内の目玉にもなり、一度は来てみたいものだとずっと機会を伺っていた。それが叶い心浮かれて遥々やって来たのである。実は娘と一緒。娘はかつて一年ほどフランスに留学した経験があり、ここに来たこともあると言う。一人では心細いので案内役に同行させたのだが、旅費はもちろん私持ち、それ以外に多少の案内料も渡した。高くはついたけれどそれだけのことはある。一人だとバスの発着場に行くのも大変だっただろう。
干潟の中に突き出た岩山とその上に立つ聖堂は潮の引いた時は陸続きだが、満ちた時は海に取り囲まれてアニメのようなシルエットを見せてくれる。それを期待していた。ところが着いてみると道路が敷かれているではないか。観光客への配慮だと。ありがたいことだが心の一隅に失望がよぎった。でもここで挫けていては楽しめないと、構わず島を登り始めた。あまりべったりいると煩わしがる私の性格を知っているのか、娘も付かず離れず付いてきた。いや、付いているのは私の方だろう。何しろあちらが案内役である。石畳の道はかなり急で、観光客が込み合っていた。
入り口に、日本語の案内パンフレットがあったので手にとってみた。こんなのを置いてあるくらいだから我が同胞は余程たくさん訪れているに違いない。景気が悪いなど、どこの国の話だろう。読んでみるとなかなかこなれた文章である。
なるほど、『大天使ミカエルを祭る聖堂のある山』からその名がついた、とある。ミカエル自身が当時の司教の夢に現れ建設を命じたというのがヨーロッパ的で面白い。日本なら、『祭壇を造り、我らの偉大な神仏を崇めよ』くらいのお告げはあるだろうけれど従者の一人に過ぎない自らを『祭れ』と指示を出し、しかもその証拠に司教の頭に傷まで付けたというのは、東洋では理解し難いことだろう。
「文化の違いか」
最早、一丁前の評論家になったつもりで娘に呟いたが、ただ黙って笑っていた。
石を積み重ね漆喰で固めた壁は、パンフレットによると戦いの時には要塞になったとあり、かなり分厚い。高く尖った屋根の先端にミカエルの黄金像が輝いていた。鎧に身を固めて剣を持ち、悪鬼を踏みつけている姿は、日本の古刹にある木像を連想させる。
「さしずめ、毘沙門天と言うことか。こういう発想は東西一緒だ」
評論家はボルテージを上げた。
「無理やり日本と比べることもないんじゃない」
娘は、相変わらずにやにやと笑って答えた。
陽が照り海も凪いでいるので外は暑いくらいだが建物の中に入るとひんやりした空気が漂っていた。どんどん奥へ進み、やがて大広間。映画「ハリーポッター」に出てくる学校の大食堂のようである。ステンドグラスを通して入ってくる外の明りが全体をぼんやり照らしていたが、部屋に並べられた展示物にはそれぞれ電気の照明がつけられていた。やはりこのくらい明りが無いと良く見えない。
「昔の世界は本当に暗かったんだろうな。蛍の光、窓の雪か」
評論家の連想は支離滅裂である。気がついたら娘と逸れていた。でも構うことはない。あちらはあちらで自分の見たいものに時間をかけているのだろう。娘も私同様に独り歩きが好きらしいから、帰りのバスに間に合えばいいと足を速めた。
展示されていたのは、奇妙な絵だった。矢鱈煌びやかな蛇、小さな蛙を呑みこむ大蛙、木の枝から生まれようとするドラゴン、頭が二つあるキメラ……、そうで無くとも迷走し始めた頭脳が一層かき回され、狂い始めた。あちらの作品からまたこちらへと行ったり来たり……これらが誰の作品かは知らないけれど、こういう環境に長くいたら空想することも色々あるのだろう。いや、妄想と言って良い。いつの間にか引き込まれ、自分ならこう描く、などと評論家魂を満喫させて思いっきり楽しんだ。
表に出たら娘が待っていたので一緒にレストランに入った。頼んだのが軍事基地だった頃兵士に食べさせたという、全卵を目一杯泡立てて焼いた名物のオムレツ、それにシードル。娘のお勧めである。実はこれもここへ来たらぜひ試してみたかったメニューだったから、意見の一致に祝杯をあげた。
「ここへは何回くらい来たの」
娘に聞くと、
「一回だけ。でももう一度来たいと思っていた。本当は少し離れたホテルにでも泊まって夜眺めると良いらしいんだけれどね」
土産物を買ったらしく、手に袋を提げている。何かとは聞かなかったが、好奇心の強さは私の遺伝らしいと苦笑いした。
程良くアルコールも回り、店を出てもう一度物見台に上ると陸からの風が吹き付けて服の中にまで飛び込んできた。これが極めつきだった。完璧なおのぼりさんになり、さながら魔法の世界に舞い上がった悦びにしばし恍惚とした。

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