エッセイ

耿さんの日々

アメリカ訪問記


1.ワイナリー

八戸市の視察団に随行してアメリカ西海岸を訪れた。団長はもちろん市長で今回のミッションは三つ、一つ目は今建設中の基地に来年からLNGを供給するシェブロン社への表敬、二つ目はこれから整備する観光トレイルの情報収集、三つ目は姉妹都市フェデラルウェイの訪問、そのどれにも私は少なからず関与している。だから、「ぜひ同行を」と何度も市の担当者は誘いを掛けてくる。彼らも断り難い企画を立てたものだ。実は体調に不安があったものの、これでは一緒に行かざるを得ない。

成田を発ったのが土曜日の午後、サンフランシスコに着いたのが同じ日の午前、これは日付変更線を越えたからで、時差が十六時間あり日本とはほぼ昼と夜が逆転している。眠い目を擦りながら着いてすぐ市内観光へとバスで出かけたが頭の中は朦朧として、うっかりしていると瞼が塞がってしまう。ガイドさんの説明も遠い世界の雑音くらいにしか聞こえず、まるで心地良い子守歌。でも時々意識がはっきりすることもあって、そんな時に耳に飛び込んでくる言葉はとても印象が強いから不思議だ。再び眠くなってもその言葉が出てくると水でもかけられたように目が覚めてしまう。魔法の呪文は「サンフラン」、この街の略称らしい。何度も出てくるので、「サンフランシスコは、シスコと略すのでは」と尋ねたら、「そう言うのは日本人だけで、こちらの人は皆『サンフラン』とか『SF』と言います」それは知らなかった。目から鱗が一つ取れた。これからはそう言おう。でないと田舎者になってしまう。

空は青く広がって雲一つない。めったに雨の降らない街だ、とは聞いていたが、今日は名物の霧も無く、遠くの山までくっきり見える。そんな好天の中、金門橋や市庁舎を始めいろんな名所を巡ったが、しかし流石に一日四十時間は辛く、目が耐えられたのは夕方までで食事が済むと一緒に取ったアルコールのせいもあって、部屋に帰るなりダウンしてしまった。全員そうかと思っていたが、次の朝聞いてみると眠かったのは私だけだったようで、他の人達はその後全員市長の部屋に集まって二次会を開き、遅くまで盛り上がっていたそうである。若い人達は体力がある、と感心したら、中でも市長が一番元気だったとの話には驚いた。私と同い年なのに、凄いこと、凄いこと……。

次の日は日曜、役所も会社も休みで観光するしかない。それで八十キロほど北にあるナパバレーにバスを走らせる予定になっていた。今回の旅行には、実は隠れたミッションがもう一つあり、それがワイナリー巡りである。ナパはカリフォルニアワインの産地で、同行のメンバーにやたらワイン好きがいて、「カリフォルニアに行ってワイナリーを見ないなんてことがあるものか」強く主張して計画に盛り込ませたらしい。ところが市長にはもっと奥深い思惑があって、「八戸でワイナリーができないかな。南郷あたりで新しい産業になれば良いのに」なんとも素晴らしい発想である。だが、それに付け加えて、「そうすればいつでも美味しいワインが飲める」本音がズバリ出て、つい笑ってしまった。

ナパのブドウ畑は横に棚を張らず、蔓を縦に伸ばして一本一本がばんざいをしているように見える。勝沼辺りと風景の異なるのが面白い。シャンドン、モンダビ、オーパス・ワンなど数か所回ったが、何種類も味あわせてくれるとか記念に特製グラスをくれるとかロダンの彫刻があるとか、いろいろ知恵を働かせて特色を出し、どのワイナリーも見物客が途切れず、これは観光資源としても期待の持てる素材かもしれない。好奇心が湧きあがり、あちらこちらで試飲を堪能して巡り終わった時にはすっかり出来上がっていた。

その日の泊まりはワイナリー近くのホテルだった。大きなビルではなく風景に溶け込んだ木造平屋か二階建ての建物が幾つかあり、ワイン倉庫風の石壁が心を和ませてくれる。部屋割の終わった後それぞれが部屋に入ろうとした時、ロビーに突然大きな音が響き渡った。見ると、大理石の床に赤い色が滲みだしていた。今買って来たばかりのワインが荷物に引っかかって倒れ、割れたのである。直ぐに支配人らしい人が飛び出してきて持ち主に謝った。聞くともなく聞いていると、持ち主は夕食の時みんなで飲もうとしていたらしい。
「それは残念だ、惜しいことをした。でも割れてしまったものは仕方が無い」

ところが、いったん部屋に入り再び食堂に集まった時、つい先ほど悲運な経験をした持ち主が妙にニコニコしている。手にボトルを大事そうに抱え、「お詫びに、とこのホテルの一番良いワインを持ってきてくれたんです。これ、たぶん私の買った物の何倍かの値段がします」「それは上手いことをした。あと二三本割れば良かった」

超、のつく高級ワインの差し入れのおかげで夕食会はかなり賑わった。雰囲気に乗って、「私はどちらかと言うと白の方が好きなんですけどね。ワインは好き嫌いがあって高いから上手いとは限らない。ボジョレなんか、正直言って美味しいと思ったことが無い」などと偉そうに言うと、市長が、「あれは美味しくて飲むものじゃない。これだと何年経つとどの程度のものに仕上がるかと意見交換しあう、いわば品評会なんですよ。それがお祭りになってしまった」と、どうやらなかなかの通らしい。この分だと南郷ワイナリーが実現したら、市庁舎をそちらに移すとも言い出しかねない気がした。


2.シェブロン

シェブロンは石油を中心に年商数十兆円、何と日本の税収を超える売り上げを誇る会社である。その本社はサンフランシスコの東およそ四十キロの小都市、サンラモンにあった。巨大な高層ビルを想像していたが着いてみると二階建てで、景観に配慮してか周囲の林に溶け込んだ静かな佇まいである。出迎えてくれたのは、本社の副社長で子会社シェブロンガスの社長を兼務するブレバー氏ほか子会社の経営陣の方々。ブレバー氏はまだ四十代だそうで、エリートの匂いがぷんぷん漂っていた。だが奢るような態度は無く、好感のもてるハンサムである。

まずは歓迎の挨拶、続いて市長の答礼。市長は、二年前オーストラリアのバーロー島を訪れゴーゴンプロジェクトの視察をしたことに触れ、「御社が環境問題に真剣に取り組んでいることに感激しました」と持ち上げると、「それは当社の最重要項目です」ブレバー氏はすこぶるご満悦である。

その時のことは、私も同行してよく覚えている。パースと島を往復するために専用の飛行場とジェット機を持ち、出発の前にはポケットの中に溜まった埃まで掃除させられた。中に潜んでいるかもしれない小さな虫や卵を除くためである。そこまでやるかとまず驚いたが、現地について視察をしているとのっそりと事務所の前に体長が二メートルもありそうなオオトカゲが現われたのには肝を潰した。「ここは我が家」とばかりに堂々として人間から逃げようとしない。おっかなびっくり近づくと、「触らないでくださいね、おとなしそうに見えても野生なんですから。それに不潔です。オオトカゲが、でなくて人間が、ですよ。耐性の無い菌に侵されるとオオトカゲが病気になるかもしれません」

なるほど、自然中心とはそういうことか、と深く納得したものだった。続いて会社概要の説明、質問、と会議は予定通り進んだ。先方の通訳に日本人女性が就いていた。まだ若い、なかなかの美人である。彼女は会談が終わった後の社内見学にも付き合ってくれた。その時、「どうしたらこの会社に入れるの」と聞くと、「始めは日本支社に就職したんですが、そのうちこちらに転属命令が出たんです」「出たときはびっくりしたでしょう」「ええ、でも最初から希望してましたから」爽やかな笑顔でさらりと言う。度胸のある女性である。

中には大きな庭があり、敷地は相当広い。あとで聞いた話によると、百万平方フィートあるらしい。それがどのくらいなのか換算してみた。約三百メートル四方の広さと出たから、野球場が幾つか入ることになる。アメリカは都会でこそ大きな建物がひしめいているが地方にはまだ持て余すくらい国土があるから羨ましい。その大地からシェールガスがふんだんに湧いて、自国内の需要に応えるばかりか輸出して外貨を稼ぐこともできるのである。この国の繁栄はまだ当分続くに違いない。未だにメートル法を使わず、長さはフィート、距離はマイル、重さはポンド、体積はガロンを通しているのは世界の宗主国の特権だろうか。妬ましくとも文句を言えないから、面積も資源も足りない小国日本は悲しい。

シェブロンを出るとバスはサクラメントに向った。ほんの近く、と言っても二百キロ位離れている。高速道路は無料。片側数車線ある道路を、どの車もものすごいスピードで走っている。制限速度表示を見ると、65とあった。ただしこれはマイルで、キロに直すと百四キロ、速い筈である。日本車が多い気がする。そのことをガイドさんに確かめると、「日本の車は評判が良いですね、燃費が良いし故障しない。中古車になっても高い値で売れるから、需要がものすごく多いです」

私は自動車業界とは何の縁も無いけれど、こんな話を聞くとやはり嬉しい。バスはどんどん左に寄り、一番中央の路線に入った(アメリカは右側通行)。ガイドさんが、「ここのレーンは、二人以上乗っている車しか走れないんです。日本人には馴染みの無いルールですね」「一人だけの車が入ったら、どうなるんですか」「見つかったら、もちろん罰金です。ほら、あの車」なるほど。前方に、白バイの警察官に止められている車があった。追い越す時に覗き込んだが、ドライバーの顔は見えなかった。つい、笑みが漏れた。同情と言うより憐れみ、さらに優越感、他人の不幸に心が和む我が心の狭さに恥じて嘲笑が重なった。

長い長い時間走り続けて、バスはやっとホテルに着いた。もう六時過ぎ、でもまだ明るい。今夜はこの街を流れる川に浮かべた船のレストランで夕食だそうである。一休みの後、ホテルを出ると直ぐに大通りがあった。昔、映画で見たような店が幾つも並んでいる。「西部劇にでも出てきそうな町ですね」と、つい口に出すとガイドさんが、「ここはね、アメリカ中のレトロを集めた通りなんです。観光のために」「で、効果はあったんですか」「まあまあ、じゃないでしょうか」世界中、どこの街も知恵を絞っているようである。八戸も頑張らなければ……。


3.トレイル

サクラメントのホテルを出て二時間、約百四十キロ走ってバスは道路沿いのドライブインに止まった。ガイドさんが、「これから昼食なんですが、その前にぜひ皆さんに見ていただきたいものがあってこの店にお連れしました。ここはもうカリフォルニアではなく、隣のネバダ州です。カリフォルニアとネバダの違い、それはギャンブルが禁止されていないということ。ラスベガスなどが有名ですが、そこまで行かなくてもこういう所で手軽に賭け事を楽しめます」引率されるまま二階に上がっていくと、そこはカジノになっていた。赤い絨毯が敷き詰められ、平日の昼だというのにゲームに興じている人がたくさんいる。見回すと、スロットだけでなくバカラやルーレットもあり、これは本格的である。

でも、とりあえずは食事。奥の「ハードロック・カフェ」に入るとすでに手配がされていたようで、間もなく出てきたのがサンドイッチ、それがとんでもなく大きい。朝食の後バスに乗り続けて殆ど動いていない体には、ちょっとばかり負担である。「アメリカ人はこれぐらい当たり前に平らげますが、日本人には二人分かも知れませんね。胃袋に自信のある人は挑戦してください」とてもそんな気にはなれず、挟んである野菜と肉だけを口に入れたがそれでも食べきれない。他のメンバーも同じらしく、どうやら見ただけで食欲を無くしたようだ。

視察までにはまだ時間がある。パンパンに張ったお腹をさすりながらカジノを一周し、戻るとメンバーたちが一か所に集まっていた。近寄ると、一人がスロットに挑戦している。「おっ、ギャンブラー」冷やかすと、喉の奥を鳴らすような笑い声をあげて、「一セントだからやってるんですよ。一ドルで百回もできる」でも調子良さそうで、時々赤いランプがつき、その度に数字が増えてなかなか減らない。「出発の時間だ。置いていくよ」「ちょっと待ってください」言いながら手元を激しく動かすと、また当たった。掛け金を十セントに上げ、当たると今度は二十セント。さらに五十セントまで上げてようやく手持ちがゼロになった。「本当に、しつこい機械だった」しつこいのはあなただろうに。散々勝たせてもらって文句を言うとは贅沢な人である。

バスは再びカリフォルニアに戻り、『タホ湖南』という町の、とある登山用品店に着いた。その店の経営者、ハスマン夫妻が今日の目的の人である。夫妻はボランティアのまとめ役をやっている。一般の人がトレイルを歩くためにはボランティアの存在が欠かせない。来る人が前もって送った荷物を指定のところへ届けたり、時にはシャワーを貸したり、夕飯をご馳走したり宿舎を提供する人もいるようである。「そんな活動をするにはそれなりに経費もかかると思いますが、来た人から頂くんですか」と聞くと、全く無料だと答えが返ってきた。「では、会費を出し合っているのですか」「それもありません。必要な経費は、協賛の企業や有志の個人からの寄付で賄っています」「ボランティアを集めるのは大変でしょう」と突っ込むと、「確かに、いくらいても足りないというのが正直なところですが、でも、アメリカには社会のために奉仕のするのは人間として当然だという意識があります」この答には痺れてしまった。アメリカは、効率や利益にシビアで知恵を働かせて巨万の富を得たとしても当然、社会に寄付する金があれば投資家に還元しろ、という国かと思っていたが、それはビジネス社会にいるごく一部の人で大多数は平凡な善人らしい。質問したのが恥ずかしくなった。

夫妻に連れられて実際に山道を歩いた。愛犬も一緒である。五才になるというその犬は、駐車場について扉が開くと真っ先に飛び出し、傍にあった沼に飛び込んだ。大きな舌を出して沼の水を飲んでいる。あっけにとられて夫妻を見たがただにこやかに笑っているだけで、どうやらいつものことらしい。おおらかな夫妻に見守られ、犬も鷹揚な性格に育ったようである。遠くの山の頂にはまだ雪が残り、絵葉書にでもしたいくらいだ。こんな広い空と大地を見ていると心もきっと広くなるのだろう。せっかくここまで来たのに、帰りの時間のこともあり大して歩けなかった。いつかまた、今度はたっぷり時間を取ってきてみたい。そんな心を残して帰路に就いた。

次の日はトレイルの管理本部を訪問した。主に自然保護を担当している役所である。そこでトレイルの概要をレクチャーされた。対応していただいたのはハスケルさん、トレイルスペシャリストという肩書である。説明によると、アメリカには全部で十一本のトレイルがあり今回視察したのはそのうちのパシフィック・クレスト・トレイル、日本語に訳すと、太平洋沿いの山頂巡りコース、とでもなるのだろうか、メキシコ国境からカナダ国境までアメリカを南北に縦断し、コースには有名なヨセミテ公園も含まれ、全長は四千キロを超すという壮大なものである。「そんな長い距離、踏破する人がいるんですか」「たくさんいます、私もその一人。百五十日余りかけて歩きました」平然と言うから驚いた。山歩きが好きだからこういう仕事に就いたのか、こういう仕事に就きたいからキャリア作りも兼ねて歩いたのか、それは分からないが、日本人とは人生の取り組み方が違う、と文化の差を大いに実感した。


4.フェデラルウェイ

「……さん、お久しぶり」フェデラルウェイ市からの迎えが来たとの知らせにロビーのソファから立ち上がりかけた時、懐かしい声とともにその女性はいきなり目の前に現れた。それが誰なのかは一瞬で分かった。「千鶴子さん、また会えた!」驚いて広げた腕の中に彼女は飛び込んできた。その体をしっかり抱きしめ、「また会えた、また会えた…」お互いに背中を叩き合うと、再会の喜びが泉のように湧き溢れてくる。「何年振りかな、お元気で何より」「そちらこそ」市長を始め、同行の人たちがあっけにとられたように私たちを見ていたので、「皆さんを待たせてはいけないから、とにかくバスに乗りましょう」促して最後に乗ると、一番前の席が空いていた。「ここに座りましょう。二人並んで」

千鶴子さんに手を引かれるまま、私もその隣に腰を下ろした。本来ならここは、案内役のフレータスさんの席である。だが誰も注意しない。フレータスさんも、仕方がないか、という風に一つ後ろの席に座った。その後どうしていたの、病気をしたそうね……小声で次から次へと質問が浴びせられ、答える暇もない。バスの中は私たちの話にみんな耳がダンボになり、しんと静まり返っていた。照れくさい、くすぐったい……でも、心地よい感覚である。

千鶴子さんは日本で生まれて育ち、縁があってこちらの人と結ばれて移り住み、もう五十年以上ではないだろうか。年齢も八十歳前後の筈である。でも背筋がピンとして、元気そのものなのが羨ましい。十数年前私がここを訪れた時フェデラルウェイ側の通訳として出会い、なぜか気が合い、帰国してからも時々メールのやり取りなどを続けていた。それによると、子供たちに空手や習字を教え、音楽や美術鑑賞など幅広く趣味を持ち毎日を楽しく暮らしているらしく、私も自作のエッセーや着物姿の写真などを送ったりしていた。やり取りのうちに、時には私も面白く無かった体験を書くこともあったろうし、また一方彼女から送られてくる便りの行間に寂しさを匂わせる部分を感じることもあった。二人とも幼馴染のいない社会で暮らしているという共通点が心を通わせたのだろうか。

やり取りは十年以上続いた。ところが、いつの頃からか彼女がパソコンを使うのをやめ、それ以来少しばかり距離が遠のき、今回久しぶりに来ることになったので私からハガキでそのことを知らせたが千鶴子さんからは返事がなく、漠然と再会を諦めていたのである。「返事を書いたんだけれど、どういう訳か戻ってきたの」宛所不明と赤いハンコの押された手紙を見ると、番地が違っている。「前の住所と違うから、引っ越したのかなと思ったんだけれど、そうなの」どうやら英語で自分の住所を書くとき私が間違ったようである。素直に認めると、「自分の住んでるところ間違えるなんて、あなたも年をとったわね」と手厳しい。

通訳の後任を託された若い女性、イオリさんが私たちの仲の良さに驚いて、先程から大きな目を見開いている。そうかも知れない。アメリカ人同士でこそハグをするのは当たり前の習慣だけれど、日本人同士ではまだ稀だろう。

バスはやがてフェデラルウェイ市役所に着いた。迎えてくれたフェレル市長は、学生時代フットボールの選手だったそうで、大きな体格をした陽気な人である。あっけらかんと、「足を怪我しましてね、それでプロにはなれませんでした」で、法律を専攻していたので仕方なく検察官になり、現在は市長をしている。アメリカでは、一生の内に四・五回転職するのは当たり前、夢とロマンの国だがここまで鮮やかな転身をする人も少ないだろう。自らあちらこちらと気さくに案内をしていただいたので恐縮してしまう。小林市長とは意気投合したようで、これからの交流が楽しみになってきた。

フェレル市長と別れ、市役所を後にした。街並みを観察すると、以前に来た時と比べ市街が格段に充実してプールやショッピングセンター、図書館、病院もでき、人口は九万人に過ぎないが八戸と違って増えているという。伸びている街には勢いがある。街並みが輝いて見えるのは決して快晴の空のせいばかりではない。

あそこの子供たちに習字を教えてるのよ、ここでは空手を指導しているの、とバスの中から千鶴子さんは楽しそうに指をさす。か、と思うと突然、「最近、息子の嫁さんと折り合いが悪くて」愚痴が噴き出してきた。でもそれも微笑ましい。千鶴子さんは今でも、年をとったからもうどうでも好いとは思わず何とか改善したいと夢を追いかけている、現役なのである。

バスは「シャクナゲ公園」に着いた。ここにも昔来たことがある。整備が進んで立派にはなっているが、懐かしい。入口に開拓時代の小屋が復元されて建っていた。「ここで写真を撮りましょう。再会の記念とお祝いです」二人でいるところを同行の人に撮ってもらった。ただのツーショットだが、私も、仕事は徐々に若い人に譲っても人生に対しては生涯現役を通したい、その誓いの証でもある。「またこれからも、時々手紙のやり取りをしましょうね」千鶴子さんは嬉しそうに、うん、と頷いた。