エッセイ

耿さんの日々

風に押されて(イタリア旅行記2)

『リグリア』

バスを降りると街は霧が立ち込め、閑散としていた。そう感じたのは私だけではない。
「こちらの人たちってお寝坊なんでしょうかね。人通りもあまり無いし」 
婦人も同じ印象だったようである。
「そういう場所だからではないですか」
ぼんやりと答えて周囲を見回した。ここはミラノの中心地、リグリアの風は湿気をたくさん含んでこのあたりに吹きだまり、霞に呑まれた街並みは場末のように寂しい。見通しの悪い世界、なんだか私の人生のようである。
教会の扉は、まだ開かれていなかった。
「イタリア人は、あまり勤勉じゃないんですって」
婦人がさらに畳みかけてくる。
「よく調べていますね」
振り返ると、
「そりゃあね」
丸い顔の真ん中で鼻の穴が広がった。

地元の銀行が周年記念で企画した旅行は思いの他興味を示した人が多く、私もその一人である。問い合わせると担当者が飛んできて、
「気楽に旅行を楽しんでいただければ良いんです」
 と、強く勧める。で、参加することにしたが、結果二十人を越す団体となった。
 飛行機が離陸すると、隣の婦人が話しかけて来た。今回初めて知り合った人である。
「音楽と絵画が趣味で、特にルネサンスには深い思い入れを持って来たのよ」
「それなら私も同じです」
 意見が一致して話が弾み、急に仲良くなった。婦人は定期預金が満期になったのでそれを費用に充てて友人と加わったらしい。聞いていると確かに造詣が深い。私も少しばかりの薀蓄を披露すると大喜びし、親しみが一層増したようである。共通の知人が多いことにも驚き、それで飛んでいる間中ずっと四方山話を続けた、と言っても九割以上は私が聞き役、婦人は話し始めると次から次へと話題が湧いて止まらない性格のようで、そのパワーには敬服してしまった。夜遅くホテルに着き私は部屋で爆睡したが朝になっても時差ぼけで体がだるく、一方ご婦人は元気が溢れて、
「早く起きて友達と夜明けの街を一回りしてきたのよ」
 早くもエンジンは快調である。

『ローマの約束』

何日か過ぎて一行はようやくローマに着いた。初日は市内観光の後買い物、次の日はバチカンを観て午後の便でいよいよ帰国となる。
続けさまにいくつもの世界遺産に触れた感動でメンバーのアドレナリンは限りなく高まり、バスの車内は明るい笑い声に満ちていた。中でも婦人は筆頭格で、既に二百枚以上も撮ったと言うカメラのモニターを何回も見返し、私にも画面を向けた。
「ほら。この写真、よく写っているわ」
「本当だ。でもここに写っている私、ちょっとおでこが広過ぎませんか。もう少し毛があると思うんですけれど」
白髪頭に手をやると、
「いやだ、そんなこと気にしているの。若いのに」
「まあ、少しだけ」
小さく呟いた。友人の女性が笑いを押し殺せず、隣でうずくまって背中を震わせた。
やがてバスはトレビの泉に着いた。早速写真の撮影会が始まった。それぞれにグループを組み、あちらこちらでたくさんのカメラに収まると私は一人離れて噴水に近づいた。おのぼりさんよろしくコイン投げである。コインは上手い具合に泉に沈んだ。こんなことでまた来られるのだろうか。首を捻りながら石段を登ると吹き上げる風が何か話しかけて通り過ぎたような気がした。何だろうといぶかしんだが、でもすぐに思い直して全景をカメラに収め、浮き浮きして戻ってくると婦人が顔を曇らせてウエストポーチを調べている。何となく、トラブルの予感があった。
「どうしたんですか」
「パスポートを持っていた筈なんだけれど、無いの」
「間違いなく、そこにあったんですか」
「ええ。写真を撮っていると男の人に挟まれてね、気が付くと口が空いていたの」
 直ぐに添乗員に連絡すると銀行の随行員も駆け寄って来た。
「やられたらしいですね」
彼らの対応はさすがに速かった。大使館に連絡し、
「これから行きましょう。今すぐ手続きをしないと明日帰国できなくなります」
 婦人はべそをかいて、
「御免なさいね、心配かけちゃって。でも皆さんと楽しんでいらっしゃい」
友人と随行員に伴われてその場を離れた。私は残りの一行と観光や買い物を済ませたが、婦人と別れて気が楽になるかと思うとそうではなく、どうにも落ち着かない。三人は夕食にも間に合わず、ずいぶん遅くなってからホテルに戻ってきた。フロントで出迎えると、
「もう一度大使館に行かなければならないの。ごめんね、明日バチカンには行けないわ」
泣きそうな声である。
「そんなにしょげないでください」
慰める言葉に困った。
 翌日、三人を除く一行は大聖堂を訪れ、時間をたっぷり取って隈なく見て歩いた。新しく出来た美術館がとりわけ素晴らしく、半日くらいでとても見物しきれるものではなかったが、肩を並べる相手が無いからどこか白けて物足りない。振り回されながら、実は頼っていたのを思い知った。
 派手な服の衛兵の周りにはたくさんの人が集まっていた。人混みを離れて広場の真ん中に立つと、周りの建物の上にはいくつもの銅像が並んでいた。正面から吹いていた風が渦を巻き、背中から押すように向きを変えた。
「一歩前に進め」
だれかの声が聞こえた。見上げると太陽が青空の中に浮かび、銅像の視線が全部私に向っていた。声の主は彼らだろうか。煽られているようで、心が騒いだ。
近くのみやげもの屋を覗いた。棚には美術館にあった展示品の写真やコピー、レプリカがたくさん並べられていた。思いついてマリア様の額を二つ買った。ローマとバチカンの文字をしっかり確認したのは言うまでも無い。
 空港で婦人達と落ち合った。
「仮の旅券を発行してもらったの。これで一緒に帰れるわ」
「それは良かったですね」
近寄って先ほど買ったものを差し出した。大きめの声で、
「これ、お二人にお土産。今回はこれで我慢するんですね。この次、機会があったら二人で又来て、今度は自分の手で買ってください」
婦人は目を丸くして一歩退いた。そして小さな声で、
「有難うございます。こんなお気遣いをさせてしまって」
突然丁寧な言い方に変わったのが面白い。これでようやく同列に並んだ。
「その時はあなたにお土産買って帰ります」
 婦人の顔に浮かんだ頬笑みは、少し硬かった。
帰国して暫く経ってから婦人たちと街で偶然再会した。
「その節はお世話になって」
「とんでもない、こちらこそ。ところで、また行く予定ができましたか」
「なかなか。できたら良いんですけど」
笑って別れたが、さて、私の手元にお土産が届くのはいつだろうか。楽しみなことである。