エッセイ

耿さんの日々

風を切る

スキーを始めたのは大学を卒業してからである。もちろんそれ以前にも誘われて何度かゲレンデに出たことはあったが、重い足枷を付け、立っているだけでも困難な雪の上で凍えるような吹雪に晒されているのは苦痛でしかなかった。だが、就職してから同僚に誘われ、これも仕事の一部とお付き合いしているうち、いくらか望む方向に進み止まることが出来るようになると面白くなり始め、そうすると氷点下の気温も心地良く頬に突き刺さり、リフトに乗って吐き出す息が白く濁るのを楽しむ余裕も生まれた。特に直滑降で風を切るのが痛快で、スピードに心が沸いた。

その頃は勤務先のある埼玉に住んでいた。金曜日の仕事が終わると夜行バスでスキー場に向かい、たっぷり二日間遊んで日曜の夜遅く、あるいは月曜の朝早く帰ってすぐ会社に出たりした。そんなことを毎週繰り返していたから、さぞ上司は苦笑いしていたことだろう。

慣れると色々な所へ行きたくなった。長野や新潟の各地、軽井沢、蔵王、猪苗代まで足を伸ばし、帰ってから会社で自慢した。呆れ顔も羨ましがられているように見えたものである。友人たちの中には私以上の馬鹿も勿論居て、暫く休暇を取っているなと思ったら北海道だのカナダに行ったと汚く雪焼けした顔を、顎を突き出して見せびらかした。悔しくて、土産の写真に押しピンでいくつも穴を開けて憂さを晴らしてやった。

級試験を受けないかと誘う人がいた。いくら世の中が資格時代だからと言って遊びの中にまで入り込んでくるのは頂けない。尤もそれが楽しみで励んでいる人も居るのは理解するけれど、それぞれが自分なりに満足すれば良い。私はひたすら滑ること、我が道を行くとばかり初めから最後まで自己流に拘り、教えてやろうという人の好意も拒んだ。

競技会に出ないかとも誘われたがこれも断った。
「スポーツとは体を動かして汗を掻くこと、勝敗や順位を競うのは好みではない」
というのが理由である。この屁理屈は今でも変わっていないが、当時実は自信が無かったのも確かである。何処だったか、ゲレンデの一部に回転のコースがあった。それほど難しくも見えなかったので空いた時を見計らって侵入してみたらとても手に負えなかった。雪まみれになってはずれた板を探していると管理人らしい人が来てひどく叱られた。腕の赤い腕章が今でも妙に印象に残っている。やはり真っ直ぐが良い。

やがて結婚し子供が生まれた。いつの間にかゲレンデから遠ざかり、時が経った。成長した子供を連れて久しぶりに雪の上に立った時、違和感があった。それが何か滑り始めてすぐに分かった。腰が引け、スピードについて行けなくなっていたのである。いくら体を押し出してもすぐに引っ込んでしまう。一方子供はすぐにこつを覚え、間もなく昔の私以上に素っ飛ばしていた。初めて年齢を感じた瞬間である。

それからさらに時が過ぎた。今でも季節になると虫が疼く。でももうとても速くは滑れない。狂ったようにのめり込んでいたあの頃が懐かしい。