エッセイ

耿さんの日々

たこ焼きの記憶

こんなにも幅が狭かったのだろうか。ぼんやりとした記憶にあるのはレンガ敷きの大通りである。今は黒いアスファルトになり、古びたアーケードと一緒になって商店街と言うのが恥ずかしいくらい暗くて細く、まるで横道である。だが間違いは無い筈だ。きょろきょろと眺めながら進んだ。覚えのある店は無く、朽ちて落ちそうな暖簾掛けだけがいくつかの家の軒に商店街の名残を止めていた。私が生まれたのはお菓子屋と畳屋の間の路地の突き当たりで、十才までそこで育った。どちらの店も見当たらなかったがそれらしい細い道はすぐに見つかった。ところが段ボール箱や古びた自転車など色々なものが前を遮っていて、とても入る気にならなかった。

諦めてアスファルトの道を進んだ。少し歩くと道幅が広くなり屋根の覆いも取れた。急に明るく空気が清々しくになったので胸に溜まった澱みを吐き出すように大きく深呼吸すると、ソースの焦げた匂いが鼻を擽った。見るとお好み焼き屋が店を開いている。消えかけた記憶が蘇ってきた。あそこには昔、たこ焼き屋があったはずである。今のよりうんと古ぼけた暖簾がかかり、玄関に屋台を貼り付けたような小さな店だったが小銭を持って何度も買いに来たことがある。必ず飴玉を一つサービスに付けてくれたものだった。

近付いて暖簾を潜った。記憶より少しだけ広い店の中に、テーブルが一つだけ据え付けられていた。

「まいど」
前掛けを着けた人がこちらを見て言った。そうだ、大阪ではそう挨拶するのだった。
「たこ焼き、あるかな」
「もちろん。持ち帰りでっか」
「ここで食べて行く」
 懐かしい訛りが自然と口から出た。
「なら、掛けてお待ち」
店の人は手際よく作り始めた。
「昔、ここで頭の禿げた人がやってたやろ」
「へえ、多分うちの親父です」
「その時は『たこ焼き』と暖簾に書いてあったような気がする。商売替えしたんかいな」
「よう覚えてはりまんな。『たこ焼き』では今時誰も来やはりまへんわ。お客さん、以前に来はったことありますのん」
「子供の頃この近所に住んでたんや。たまたま仕事で近くまで来たから寄ってみた。どないになってるか思てな」
「さよか。そら、ようお越し。へい、お待ち」

出されたものを一口頬張った。口の中に、掛けたソースの甘辛さが広がった。そうそう、これ。頭の片隅に残っていたのと同じ味である。思わず涙が出そうになった。
「うちのは先祖伝来の味だっせ、大きめのたこ入れて硬めに焼くんです。ソースも特製」
確かに能書きどおりである。味もそうだが店に立ち込める香りがたまらなく懐かしい。
「先祖言うても親父さんからやろ」
意地悪をして訊いてみた。何十年か振りに使う言葉が抵抗もなく湧いてくる。たこ焼きが呼び戻してくれたのだろうか。鼻と口の記憶は目よりも深いらしい。
「そらま、そうだっけどな」
店の人はからから笑った。

一気に食べてコップの水を煽り、店を出た。ふるさとを堪能できたのに満足していた。でも、私が子供に戻ることが無いようにもうこの店に来ることは無いだろう。ふと、浦島太郎の物語を思い出した。
「浦島さん、浦島さん……」

口ずさみながら駅に急いだ。帰りの新幹線の時間が迫っている。