エッセイ

耿さんの日々

息子の好み

駅の階段を下りると久しぶりに見る顔がこちらに近づいてきた。無精ひげに長い髪、奇抜としか言い様が無い服装・・でもこの雑然とした景色の中では違和感が無いから不思議である。卒業までもう少しという時期になって我が息子は下宿を移りたいと言ってきた。それもテレビドラマの舞台になったり雑誌で若者の街とよく書かれている土地に、である。「部屋代は変わらないし、便利だし……」

他にもいくつか言い訳を挙げていた。特に反対する理由も無いから了承したが、一度はその場所を見ておくのも親の務めである。たまたま出張があったので、「仕事の後寄るから」とメールを送ったら、「駅前に迎えに出る」と返信があった。それで感心したのに、会ってみればこの風体である。何をちゃらちゃらしているのやら・・。夕飯を誘ってみた。

「良いお店見つけてあるよ」言われるままについて行くと商店街を外れ、十字路の角の暖簾を潜った。お好み焼き屋である。高級レストランでの食事を強請られるのかと思っていたら意外だった。注文の仕方が手馴れている。「こういう店が好みなの?」「美味しいんだよ。それに混んでないし」照れ臭そうに説明をする。

お好み焼きを食べながらビールを飲むのは私の好みである。いつの間にか息子にも伝わっていたらしい。それとも気を使っているのだろうか。二人の間には沈黙が漂っていた。ソースの焦げた匂いが鼻を衝く頃、ようやく息子が口を開いた。
「卒業を少し先に延ばしたいんだけど」
来たか、と思った。それでも平静に、
「単位が足りないの?」
「それもあるけど、考えたいことや、やっておきたいことがまだ残っているから」
「どんなこと?」
「自分でもよく分からない。何も決めていないままで社会に出たくない」

さらにいくつか質問をしてみたがはっきりした返答は出てこなかった。でも、今自分の人生について初めて真剣に考えているのだと見当がついた。
「まあ、大学までは順調に来たからね。少しくらい足踏みしても良いだろう」
他にも言い方があったかも知れない。小さな後悔が胸の辺りに湧いたが息子は安堵したようである。私のグラスにビールを継ぎ足し、自分のにも注いで一気に空けた。コテを大げさに動かし、
「すじ肉の入ったのが、一番!」
と どうやら旺盛な食欲が復活したようである。