エッセイ

耿さんの日々

朝市にて

かなりの人出。ただ立っているだけでも誰かにぶつかる。

挨拶をする人、値段交渉をする人、いろんな会話が市場全体に溢れ、断片が脈絡も無く耳に飛び込んでくる。でも騒がしさを感じない。それどころか懐かしさが湧いてきて心が落ち着くのはどういうことだろう。この街に棲みついて長い年月になるが、ここに来るといつもそれを感じるのだ。

肩を叩かれて振り返ると見覚えた顔があった。日焼けした丸顔。やあ、と取りあえずは挨拶をしたが、はて名前が思い出せない。無難な言葉を交わしながら一生懸命考える。それでも浮かんでこない。じゃあまた、と切り上げて近くの店を覗いたが、頭は記憶の迷路に難渋したままである。どうにも落ち着かない。
「旦那さん、買ってけんだ」
と店の人。指差した先を見るとタラコがあった。
「ああ、おいしそうだ」
「ほい、まいど」

リズムに乗せられてつい買ってしまった。まあ良いか、どうせ食べることだし、迷路から抜け出すことが出来た、と納得。袋を下げて別の店へ行く。

野球のボール程もあるピーマンを見つけた。触ってみると肉も厚い。
「いくら?」
と訊くと一山百円だと言う。これは安い。注文すると白い袋にどさどさと入れ、後ろの箱からさらに幾つか入れ足してくれた。
「そんなにおまけして大丈夫?」
「なんも、お馴染みさんだべ。商売でないすけ」
「だら、こんだ作者名も入れといてけんだ」
と方言を真似てみる。
「ハンコでも押しとくか。は、は、は」

店主の中には、趣味で農作や園芸をやっている人もいるらしい。自分の作ったものが人に喜ばれると嬉しいとか、ただ単に売る立場になってみたいとか、あるいはたくさんの人と触れ合うのが楽しいとか……そんな気持ちで朝早くから店を開いているようだ。もちろん本職もいる。店の構えや少しの言葉のやり取りでどちらかは大体見当がつく。商売っ気の無い人には親しい会話で支払う。それが人生の礼儀と言うものだ。

物の売り買いがビジネスになり、効率や収益性と言った考え方が幅を利かせるようになったお陰で、流通が活発になり生活は豊かになったが買い物が詰まらなくなったとこの頃つくづく思う。でもこの市場には見失ったものがまだある。懐かしさはそのせいだろうか。

古本屋があった。近付くと、なんとしょっちゅうここで顔を会わせる人である。確か元高校の教師で、現役のときは部活の指導でそれなりに知られた人だったらしい。でもその頃私はまだこの地には居ず、噂で聞いただけである。
「先生、商売でも始めましたか」
大げさに声をかけると嬉しそうに微笑んで、
「そうね、朝市中毒が高じたと言うか。ねえ、買ってよ、安くしとくから」
昔買い集めたらしい、どれもありふれた本が小さなテーブルに並んでいた。
「これは特別。あんただけに売ってあげるから」
選び出したのが色画用紙を表紙にした自家製の本。著者名を見て呆れた。なんと、この先生である。
「お買い得。そのうちにうんと値打ちが出るよ」
「いや、いや」
とその場を逃げ出して他の店に隠れた。先生の馬鹿笑いする声が市場の中に響いている。

朝ごはんのおかずにおいしそうなものがたくさん並んでいた。覗いていると何でもかんでも欲しくなる。てんぷらと豆腐と「みず」も買った。それで止めておけば良かったのに、最後にでっかいスイカを一個。これが余分で、持って帰るのに重いこと重いこと、指が千切れそうだった。帰り道で何度も立ち止まっては、通り過ぎる車を恨めしく眺めた。今朝に限ってどの車も運転が荒っぽい。

それで思い出した。さっきの人は会社にも時々来るトラックの運転手氏だった。引き止めて乗せて貰えば良かったと一瞬後悔したが、まさか朝市にトラックで来ているはずも無いと気付いた。頑張るしかないか。今年は何年ぶりかの猛暑らしい。今日も暑い一日になりそうだ。