エッセイ

耿さんの日々

バスが走る

最近、路線バスを使うことが多くなった。マイカーを運転している時は、バスは不便で使い勝手が悪いと勝手に決め付けていたけれど、私の場合中心街に用のあることが多く、乗り慣れるとそうでもないと考えが変わった。確かに、思いついた時直ぐに出発できないとか発車時間が電車ほど正確ではないのでイライラすることもある。でもほんの五分か十分待てば済むことで、時刻表を持ち歩く習慣をつければ悪天候でもない限り問題にはならない。待っている間に周りの景色や街の様子がよく見え、花が咲き始めた、こんなところにこんな店があったのか、とむしろ楽しくさえある。停留所まで歩くのも運動するチャンスと考えればありがたいことで、運転に神経を使う必要もないし目的地に着いてから駐車場に困ることもない。

少し高い車窓から見える景色がとても新鮮で、ほんの少し角度が変わるだけでこんなに印象が違うのかと驚く事が多い。例えば花壇の奥にもう一列花が並んでいるのを知って彩りの美しさに感動して得をしたような気になるし、道路が混んだり大きな車に挟まれたりしても圧迫感に襲われることがない。自分で運転するというのは視野も狭まるし結構なストレスだったというのが改めて分かり、交差点で鉢合わせして先に出るのを争っているドライバーの姿を見ると哀れにさえ思えてくる。

満席はめったにない。五十人も乗れるのにドライバーとたった二人だけというのもしょっちゅうで、赤字に悩む経営者には申し訳ないが、こんな贅沢をさせてもらって、と一番後ろの広い席にふんぞり返りながら時々ほくそ笑んでいる。

朝市のバスが特に良い。中心街から乗る人には観光客も多く、地元の人から話しかけられるのが旅の楽しみの一つと考えているらしい。だからちょっと声をかけると十三日町から漁港前までずっと話しっぱなしというのも珍しくなく、
「是川というところに縄文館がありましてね。そこに国宝の合掌土偶が展示してあって、一万年前からお祈りし続けているんです」
と宣伝すると、興味が湧いているのは間違いないのに、
「午後に帰るので時間が無いかも」
何故か駄目な理由を言ってくる。うまいものだと感心するが、そこでもう一押し。
「二時間あれば充分です。何か願いが叶うかもしれませんよ」ついでに行ってみようという気が少しでも高まれば、万歳である。

籠を背負い、あるいは両手にたくさんの買い物を下げているのはほぼ間違いなく土地の人で、初対面でも、
「ずいぶん買いましたね。おいしそうだ」
と褒めると、様々な薀蓄と料理法の説明が返ってくる。それも降りるまで続く。ほんのひと時、小さな空間に一緒にいるというだけで人は親しくなれるものらしい。

チーノからビアノバの角を曲がって三春屋の前に着いた。新しい出会いに心が華やいで、今日も楽しい一日になりそうだ。バスは、まるで走る社交場である。