耿さんの日々[その六]
その先にあるもの
私の息子は小学生の頃からピアノを習っていた。性に合っていたのか中学校に入ってもやめようとはせず、それどころかいつからか自分で作曲を始めた。それが音楽的にどの程度のレベルのものなのか素養どころか基礎知識も無い私には判断できないが、息子は機会あるごとにあちらこちらで披露したそうで、評判はまずまずのものだったらしい。するとそれに味を占めたのか、大きくなったら、
「作曲家になりたい」
などと言い出したので驚いた。それでも、
「若いうちは何でもチャレンジしたらいい」
鷹揚に構えていたら、高校進学の時に、
「普通の学校に進学したら、音大受験のサポートをまともにはしてくれないだろう」
と自分なりに考えて、『私立の特進科希望』と学校に申し出たのである。当時のこの地域の高校はたいてい国立や有名大学への進学率競争をし、中学はその率の高い高校ばかりを薦めていたから、
「よく見ているな」
とは正直思ったが、学校から連絡があり、
「何とか説得しなきゃだめですよ。親として子供の将来をどう考えてるんですか」
と教師が私に説教する。(やけに上から目線でものをいう)と不愉快になったので、
「子供が真剣に望んでいるのなら叶うよう助けてやるのが親でしょう」
突っぱねて息子の好きにさせることにした。
息子は望む高校に進学し、さらに音大に進むために必要な知識を授けてくれる先生を自分で見つけてきて習うことも始めた。三年間、よく通い続けたものである。そして受験。無事合格し、私も安堵した。ところが、
「もう音楽の勉強はいい。材料になるものを勉強したい」
と、突然音楽とは全く関係のない分野の大学に進学を決めたから面食らった。何を考えているんだ、もう好きにしろと突き放し、黙って成り行きを見守っていると、四年後その大学で理学療法士の資格を取り、卒業して病院への就職が決まったと連絡をしてきた。(今度こそ落ち着いたか)と歓迎して新社会人の祝いをしたが、一年も経たないうちに、
「病院というのは、やたら医者が威張っているところで面白くない。今から医者になる気はないが、医学博士になる」
と宣言し、私立医大の修士課程を受験して合格し、通い始めた。学生に戻ったのである。受験勉強だって大変だったろうに一言も弱音を吐かず、病院とどう交渉したのか、勤めを辞めず続けながら通えることにしたらしいから少しは大人になったのかと感心もしたが、もともと思い込みの強い性格で時にストイックになる気質もあったので、迷い過ぎて人生を見失ったり体を壊したりしなければ良いがと、再び心配に包まれることになった。
「博士課程を受験して合格したんだけれど、どこに行けば良いかな」
二年後、息子が笑みを浮かべて戻ってきた。見ると、東大と京大と東北大の合格通知である。相談ではなく、自慢したいんだとすぐに分かったので、
「どこでも、好きにしたら」
興味ない風を装った。
脳科学を専攻していることは知らせてきた。それがどんな研究なのか解らなかったが、三年も経ったろうか、ある日、自分の書いた論文が学会誌に載ると伝えてきた。名を聞いたら、私も知っている有名なものだった。
「おめでとう。たいしたものだ」
暫くしたら論文のコピーを送ってきた。英語で書かれていて専門用語はよく分からなかったが、被験者の頭にセンサーをいっぱいつけた帽子のような器具を被せ、和音や楽曲を聞かせると脳のどの部分に反応が見られるかという研究だった。読んでいてこれまで息子に抱いていた不安や疑問が一気に解消した。
息子は『癒し』というものに興味を持っていたようだ。最初からはっきり意識していたのではないだろう。でもピアノを弾いたり曲を創ったりすることで自ら『癒し』を得、或いは感じる人がいることを知り、音楽家を目指したが、途中から『癒し』そのものに注目するようになった。そしてそれが脳の作用によって起こることだと考え、研究者となり今回の論文に繋がったのだ。
気が変わり易くて一貫性が無く、頑固で協調性が薄い、それが息子の性格だと今まで誤解していた。でもそうではなかった。息子自身認識したのがいつか分からないけれど、ずっとその先にあるものに拘り、高い『志』を持ち続けていたようだ。『癒し』とは何かを知りたいと。
学校に行くことを将来の就職に繋げてしか捉えず、すぐに生活の安定を考えてしまう私の方がよほど『志』は低いかも知れない。
息子が次に何をするのか予測できないが、全て『志』に繋がることと信じて見守ってやりたいと、論文を読みながらしみじみ思った。