耿さんの日々[その六]
今夜はお寿司
家に帰ると、かみさんが出かける準備を終えて待ち構えていた。今朝、今夜は回転寿司に出かける約束をしていたのだ。かみさんの知り合いがその店で働いていて、従業員紹介の優待割引券をもらっている。
「早く行かないと、遅くなれば混むっていうから。急いで」
着替えて玄関に出ると、もう娘が車のエンジンをかけて待っていた。久しぶりに三人での外食だった。豪華なレストランではないが、家族揃っての貴重な時間だ。
店に着くと、すでに十人余りの人が席の空くのを待っていた。娘は慣れていると見えて、入り口の予約機を手早く操作する。こういう店ではこんな方式が主流らしい。待っていると、従業員らしい女性がかみさんを見つけて近づいてきた。かみさんもはしゃいだ声を上げて、二人で手をつかみ合わんばかりに挨拶をした。彼女が割引券をくれた人らしい。私も軽く目礼をした。さらに待っていると、今度は男性の従業員と目が合った。見覚えがある。ちょっと無精ひげの中年の人で、太縁の眼鏡をかけている。あちらも気が付いたらしく、私に話しかけてきた。
「来ていただけたんですか。ありがとうございます。たくさん食べて行ってください」
「ここで働いていたの」
「ええ、待遇はアルバイトなんですけどね、一応接客のチーフやってます」
男性が離れると、娘とかみさんが訊いてきた。
「知ってる人なの」
「どこかで会ったのは確かなんだけど、どこだったかな」
娘は男性の名札を見たらしく、彼の名前を教えてくれたがやはり思い出せない。
「顔を覚えるのは得意なんだ。名前を覚えるのも悪くない筈だけど、両方が結びつかない」
「最近そういうの多いんじゃない。ボケの始まりよ」
落ち込んだ私を、かみさんと娘がけらけらと笑って冷やかした。
やがて番号が呼び出され、指定された席に着いた。テーブルの横にコンベアが動いていて、いくつかの握り終えた寿司と、小さなパネルに挟まれた写真が回っている。回っている寿司を取っても良いが、やや高い所にタブレットが掛けられていて、それ以外の注文を伝えられる仕組みになっているようだ。最近は居酒屋でも似たようなシステムだから抵抗はないが、角度が悪くて画面がよく見えない。テーブルにはそれとは別に写真入りのメニューもあったのでそれを見ながら、
「ハモとエビ」
と注文すると、
「うわ、高いのばっかり」
と娘がからかう。かみさんも娘も注文を出し、娘がパネルを操作した。暫くすると、コンベアの上の段に新幹線が走ってきて、私たちの前で止まった。注文したものが乗っている。皿をおろして娘がパネルの「オーケー」に触れると新幹線は戻っていった。
来たものを食べながらメニューをゆっくり眺めた。いろいろな種類がある。揚げびたしのナスの握り、焼いた白身魚やエビの天プラも握りのネタになっている。竜田揚げの太巻き、魚卵だけでなく朝鮮漬けやマッシュポテトを乗せた軍艦巻きもある。寿司も変わったものだ。私が小さい頃、叔父が寿司屋をやっていた。時々訪問しては、鉄火やバッテラ、時にはトロなどもご馳走になっていたが、回転寿司が世間の話題に上り始めたころ、
「あんなのは寿司じゃない」
と息巻いていたのを覚えている。確かに、長い修業の末に魚をきれいにさばく技術を身に付けて職人となった人にはハムやアボガドの握りは許せないものだったろう。今でも昔ながらのものだけを扱う店もあるが、高級料理店とみなされ、大衆は殆ど回転寿司に奪われている。時代の流れと言えばそれまでだが、寂しい気もする。
そんなことを考えながら面白がっていろいろ注文しては食べ、かなり満腹になったころ、先ほどの男性が席に来て、
「今日は私が割引券を出しますのでそれで支払ってください」
と言う。
「でも、もう貰っていて、それを使うつもりで来たんだけど」
「はあ、でもやはり私のを使ってください」
しつこく勧めるので従うことにした。成績にでも関わるのだろうか。何しろ、レジを扱うのは彼の仕事だから、無視することもできない。
「いいのかな」
かみさんに訊くとあっけらかんとして、
「問題ないでしょ。だってそれならもう一度来ればいいだけのことだから」
ところで支払いは私だった。クレジットカードで済ませた後、またかみさんに訊いた。
「もう一度って、その時も私が払うの」
「当然でしょ」
なんだか釈然としない。でも仕方がないか。とかく食欲の秋は、物入りのようである。