耿さんの日々[その六]
のんちゃん
我が家にはとんでもないきかん坊がいる。もうすぐ五歳になるチワワだが、生まれてまだ二、三カ月の頃、ペットショップで出会って連れ帰ったのだった。選んだかみさんに名付けを一任したら、
「のんちゃん、でどうかしら」
と提案したので理由を聞くと、
「私が子供のころ呼ばれていたあだ名なの」
そんな名前をこれから飼おうとする犬に付けようという感覚にいささか違和感はあったが、かみさんが良いと言うのでそう決まってしまった。
来てすぐ元気に家の中を走り回り、餌も水も与えたものを残さず空っぽにしてしまったから我が家と相性は良かったのだろう。でも、だんだん甲高い声でしつこく鳴くようになり、また、最初からところかまわずウンチやおしっこを撒き散らしてばかりいたので、部屋の隅に敷いてあるシートを指して、
「ここでするんだよ」
教えたけれど、いくら言ってもポカンとしているだけで全く効果がない。何度も失敗を繰り返すので我慢の糸も切れ、語調を強くして言うと、唸って反抗しようとする。さあ困った。かみさんに犬のトレーナーをしている知り合いがいると言うので相談をすると、
「うちで教育しましょうか」
それは助かるとお願いをし、数日預かってもらうことにした。帰ってくると、なんとシートを使うようになっているではないか。
「どういう風に教えたんですか」
驚いてトレーナーの人に尋ねると、
「見て覚えたんですよ」
その施設ではいつも数匹、多い時には十匹以上預かっていて、他の犬がシートをうまく使うのを見て学習したらしい。さらに、鳴かなくなったので、それも訊くと、施設にはオーナーの育てている大型犬がいて犬たちのボス役を務め、常ににらみを利かせているらしい。どの犬も我が儘が過ぎるとボスのひとにらみで、途端に静かになると言う。
「なるほど、犬は犬同士というのが良いんだ」
感心してのんちゃんを見ると、相変わらずポカンとした顔をしていた。
利口になって帰ってきても、しばらくするとまた元に戻った。前と同じように甲高い声で鳴き、ウンチやおしっこを撒き散らす。さらに、少し大きくなって足の力もついて来たのか、今度は家のフローリーングを掘ろうとし始めた。そんなことをされては堪らない。また預けて再教育してもらうことにした。
何度かそんなことを繰り返した。でも効果はせいぜいひと月しか続かず、
「習性として根付くようにはなりませんか」
トレーナーの人にお願いすると、
「無理やり人間の生活に合わせるように強要するのも可哀そうですよ。これがこの犬の個性だと思ってください」
やれやれ、手の打ちようがないのか。目先を変えて、尋ねた。
「私が出勤とか外出しようとすると吠えて噛みついてくるんですよ。どうしたら良いでしょうかね」
実際、私の足は血が滲むまで噛まれたことも幾度かあり、鞄には爪の後も残っている。
「帰って来た時は大丈夫なんですか」
訊き返されたので、
「それはないな。ただ、うちにいる時でも二階に上がろうとすると噛みついてくる」
「のんちゃんは下に置いたままですか」
「ええ、上には上がらせません」
するとその人は合点がいったという風に、
「もっとかまって欲しい、一緒にいて欲しいと言ってるだけですよ。時間があったら、思いっきり抱いてやってください。そうすればしなくなりますよ」
半信半疑で、それでも心には止めておいた。
今日は久しぶりに全く予定のない休日だった。朝寝を貪り、朝食の後はリビングでテレビを見ながら横になっていた。すると、のんちゃんが私の隣に来て同じように寝そべった。ふと、先日言われたことを思い出し、手を伸ばしてのんちゃんの頭を撫でた。のんちゃんは驚いたように頭を上げたが、その後は大人しくされるままにしていた。体を裏返し、お腹を撫で、後ろ足の股や前足の脇も撫でてみた。全く抵抗しない。二十分もそうしていただろうか。手を止めてまたゴロンと横になったらのんちゃんも床の上に長く伸びた。
でも、いくら休みだからと言って一日中寝てばかりもいられない。運動がてら散歩でもしようかと立ち上がって気が付いた。のんちゃんが纏わりついてこない。まだ床に寝そべったまま私を見ている。
「ちょっと出かけてくるからね」
手を振って玄関に向かったけれど噛みついても来なかった。
「ああ、あの人の言ったとおりだ。さて、いつまで続くか分からないけれど、また噛みつくようになったら撫でてやるか」
そんなことを考えながら表に出た。連れて出ようか、と思わないでもなかったが、のんちゃんは散歩が嫌いで、いつも足を踏ん張って拒否をする。寒くなればなおさらで、うちの中で弁慶になっているのが好みなのだ。これも個性と言うのだろうか。
「イヌはこたつでまるくなる」
歌を歌いながら、ぶらぶらと歩き始めた。