耿さんの日々[その六]
将来の夢
今、八戸ジュニアオーケストラの会長を承っている。前会長だった人と会社経営者仲間で、どちらも音楽が好きなことから意気投合して親しくお付き合いをさせていただいていたのだが、その方が他界されて数カ月もした頃、奥様が突然会社に見えて、
「面倒なことは何もありません。ただ、発表会が終わった後、団員たちに『ご苦労様、良かったよ』と言ってもらえればいいんです」
甘い言葉で後任を打診しに来られた。ご夫婦と共に酒食を共にしたこともあり奥様とも知らない中ではなかったから、その程度で良いなら、と軽い気持ちでお受けした。ところが、なってみるととんでもない。全くのボランティアで無給なのは構わないとしても、活動で資金が必要になったら僅かながらもポケットマネーを提供したり協賛金を集めるために走り回ったりしなければならず、こんな筈ではなかったのに、と後悔する羽目になってしまった。でもひたむきに演奏する子供たちの姿には見ていて心を癒されることが多く、それから十年以上経っても辞められない。どうやら、必要とされているらしい。
暮れも押し詰まったころ、ご父兄の方からメールを頂いた。
「クリスマスコンサートの練習とリハーサルの後で団員たちのパーティをやるのですが、時間があったら覗きに来ませんか」
というお誘いである。ご父兄の方々は毎回の練習に立ち会い、子供たちの食事やお菓子の世話をしたり事務局員として会計や総務を担当したりなど、細かい仕事を日々熟して頂いている。事務局と私の間に理事長という人がいて私への連絡はその人から来ることが多いのだが、発表会の後などご父兄とたまに顔を合わせた時話をすると、理事長の報告と微妙にずれがあるのを感じることがこれまで度々あった。公演などイベントの企画・推進をする立場と日々の世話をする人の物事の捉え方の違いだろうが、時にはお互いの信頼感が損なわれているのではないかと思わせられることもあり、それで思いついた時に練習場へ顔を出してご父兄方の話を直接聞くように心がけてはいた。だが、ここ暫くそんな機会もなかった。丁度良いタイミングだ。予定を見ると時間が取れそうなので、参加するとメールを返した。子供たちと話をするのも久しぶりで、祖父に近い、あるいはそれ以上かもしれない年齢の私から話しかけられても彼らにとっては迷惑かも知れないが、その困った顔を見るのが、実は楽しみでもある。
さて当日、会場を訪れると、まだ演奏の練習中だった。それを終えると今度は入退場の、次には曲目紹介の、と練習が続き、指導に当たっている先生が細かく指示をする。この先生は自身がプロの演奏家であるからか、演奏技術だけでなくステージマナーについてもポイントを押さえた教え方をし、子供たちも信頼していて従順である。一通り終わると総合リハーサルになった。その日揃っている分の衣装も着け、なかなか可愛い。一足早いクリスマスコンサートは順調に進行し、演奏は無事終了した。
いよいよパーティになった。お菓子や飲み物、ピザやチキン、色々なものが用意されていた。ご父兄方は子供たちが喜びそうなものをさすがによく知っているようで、あちらこちらに歓声が起こり、一気に雰囲気が盛り上がった。
ジュースを持って席を移動し、中学生の団員に話しかけた。楽器は何歳から習っているの、どんな曲が好きなの、部活もやっているの……子供たちはぎこちなくためらいながらも答えてくれた。
「将来、音楽の道に進みたいの」
と訊くと、
「まだわからない。でもできたら」
将来を頭に描きながらなのか、照れ臭そうでもある。私はただ微笑んで聞いているだけ。高校生の団員にも話しかけた。訊くことは同じ、すると、
「音大を受験する事だけは決めました。でもどこにするかは未定です」
少しは現実を意識しているらしい。全体に、やはり音楽の道を望む子供は多いようである。普段から私は、
「音楽に一生触れていける幸せな人はせいぜい百人に一人。そのうち職業にする人はさらに百人に一人、つまり一万人に一人。その中でそれによって年収一千万くらい稼げる人はさらに百人に一人、ということは百万人に一人くらいで、宝くじを当てるようなものだ。収入だけが人生を決める要素ではないけれど、その道を選ぶ人は余程努力をしなければならない」
と機会があるごとに話している。決して諦めさせようとしているのではない。華やかな外見だけに憧れるのを戒め、覚悟を促しているつもりである。それでも子供たちは夢を捨てない。
ご父兄の一人に、
「子供さんが音楽の道に進みたいと言えば、どう答えますか」
と訊いたら、さすが、子供たちの練習に付き添ってくる方々だけあって、
「本人が希望すれば、叶えさせてあげたい」
みなさんそのようにおっしゃる。
「生活が大変でしょうね」
そう返すと、
「うちの亭主だって、サラリーマンやってますけど一千万なんてとても貰ってません。半分がいいとこ、それでぶーぶー言って、女房からもぶーぶー言われて耐えてます」
けらけらと笑いながら答えが返ってきて、私も大笑いした。
なるほど、ここにいる方たちにとって、ジュニアオーケストラは子供たちの将来の夢への入口なのだ。その会長が私ということか。これは、この先話の仕方を変えなければダメかな、と少しばかり反省した。
パーティの途中で私は退席した。あとで聞いたところによると、片付けが終わった後で団員たちはもう一度練習したそうである。その情熱に敬意を表して、子供たちやご父兄の夢が叶うよう祈った。
将来の夢か。
私が団員たちの年齢の頃はどんな夢を持っていただろうか。音楽・絵画・彫刻などの芸術家、土木・建築の技師など、毎月、いや毎日のように夢が変わり、当時世間で話題になった職業に手当たり次第に憧れていた記憶がある。最終的に目指したのが自然科学の研究者で、大学院に残ることを望んだが経済的な事情で叶わず、企業に勤めてそれでも研究所配属を希望したら認められ、夢の入口にまでは辿り着いたと大喜びをしたのが、ほぼ半世紀前だった。
ところが途中で方向を転換した。研究所の尊敬する先輩が病気で急逝し、気持ちの落ち込んでいた時に、義父から、
「八戸に来て、自分が経営している事業を引き継いでくれないか」
そんな申し出を受けたからである。会社を経営する人になるなんてそれまでの夢の中には全くなかったので始めは気乗りしなかったが、落ち込みがなかなか回復せず研究者の夢がくすんで見えてきて、悩んだ末に、そんな人生もありかと方向を変えることにした。
それから三十五年が経った。運に恵まれたのか、引き継いだ事業を潰すこともなくむしろ拡大でき、後継者も育ってきたのでバトンタッチを徐々に進めている。努力もしたしそれなりに楽しいこともあったが、会社経営も私にとっては生涯をかけてみたい仕事ではなかったようだ。
ジュニアオーケストラの会長を承った頃から、文化的な活動に興味が膨らみ、音楽だけでなく演劇や文筆、舞踊や様々な芸能を鑑賞することが多くなり、時には自ら創作に挑戦をし、舞台に立つことも経験した。今年、私は七十歳になる。もう人生も末期で、だれが見ても老人だし自らも自覚している。でも平均年齢まで生きることができるとすれば、まだ十年余り「将来」と呼べる人生がある。この時間を大切にして、もっと文化的な活動、特に創作に打ち込みたいという気持ちが日毎に高まっている。コンクールなどに応募して入賞を狙うのも楽しみ方の一つだが、世間的な評価よりも、自分が納得できる作品を作り、死んだ時には一緒に棺桶に入れてもらってあの世に持っていく、そのほうが面白いかもしれない。そんなことを一人で想像しているとふつふつと笑いが湧いてきて、夜など眠れないこともあるから困ったものだ。