エッセイ

耿さんの日々

雪道

青森の街には雪が激しく踊り始めていた。寒さが肌に刺さる。ああ気が重い、こんな天気になるのなら車で来るんじゃなかった。後悔が何度も息を吹きかけて来る。八戸まで、八甲田の山を抜けたら近道だけれどそれでは命がけになる。遅くなっても麓を回って帰るとしよう。

三十分も走ると温泉街まで来た。ホテルの大きな建物が目に入った。震災以来めっきり泊まり客が減ったと新聞に出ていたが、今日はことさら少ないことだろう。反対側には海が見える。波が荒れて、泡が水面に模様を描いていた。

ここまではまず順調、思ったより早く帰りつけるかもしれない。ほっとしたが、甘い期待はしかしすぐに裏切られた。トンネルを潜り出た途端、
「うわあっ」
 つい声を上げてしまった。入る前とは比べ物にならない降り方である。遠くが霞んでよく見えない。ライトを点けてワイパーを速めた。それでも視界は良くならず、スピードを落とした。前の車はもう止まっていてテールランプがすぐに近づき、バックミラーが眩しく光った。前後を車に挟まれ、両脇には凍りついた雪が山のように連なっているから最早止まることも引き返すこともできない。行列を作って、退屈で神経ばかりが疲れる電車ごっこの始まりである。

一時間ほど行くと道路が下りになった。前の車はそのまま進んだが私は止めて様子を見ていた。ここはよく知っている。少し行くとまた上り坂になり、今日のような日は道路が凍りついて下りの惰性を利用しないと登れなくなることがある。案の定、前の車はお尻を振りだした。やたらアクセルを吹かしている。あれだと却って滑るのに……。

暫く奮闘ぶりを見ていたが、一向に進みそうにないので降りて前の車に近寄った。

ガラスを叩くと窓が開いて、スカーフをほっかぶりした中年の女性が顔を見せた。眉の間に皺を寄せて、
「すみません。どうにもならなくて」
 語尾を跳ね上げるアクセントはこの辺りの方言である。別の土地で生まれて子供時代を過ごした私にはいくら頑張っても真似ができない。だから「旅の人」と未だに言われ、知人や友人は沢山出来たけれどしっくり来ないことが時々あって、悔しい。
「私と代わりませんか」
「お願いできますか」
 全く躊躇する様子が無かった。余程困っていたのだろう。
 自分の車に戻って毛布を取り出した。こんな時のためにトランクに放り込んであったやつである。すると後ろの車の男性が、
「我(わ)も手伝うよ」
分厚いコートに袖を通しながら追いかけて来た。私と同じくらいの歳だろうか。力仕事には自信がありそうな体格をしている。これは頼もしい。北国の人は流石に助け合いの気持ちが強い。漁師さんだろうか、ちょっとおっかなそうだけれど……。

雪の上に毛布を敷いてゆっくりアクセルを踏むと前輪に上手く絡んだ。男性が後ろから押してくれる。斜めを向いていた車体が真直ぐに向き直ってそろそろと前進を始めたので、
「もう大丈夫でしょう」
 席を降りると女性は米つきバッタのように何度も頭を下げた。
「困った時はお互い様ですから」
 押してくれた男性が微笑んで手を上げたので、こちらも返した。どうやら怖い人ではなかったようである。良かった。

行列は再び動き出した。先頭が女性、次が私、後ろには……何十台も繋がっていた。だが女性は懲りたのかスピードを上げようとしない。それで良い。前が空いたからと言って私も合わせるつもりはない。

十分も経たないうちに前の一団に追いついた。そんなに距離は開いていなかったようで安心したがそれからが大変、いくら待っても進まない。次第に気が焦り、ハンドルを指で叩いたりラジオのチャンネルをいじったりナビを動かしたり……。

一時間我慢した。しかし堪えきれずとうとう外へ出た。肩が張って固まっている。風は一層音を立てて吹き荒れ、雪が乱舞していた。寒い中、膝を二、三度曲げボンネットに手をついて腕立て伏せをした。少しは体が柔らかくなっただろうか。すると前から女性が降りてきて、
「さっきはどうもありがとうございました。良かったら、温かいお茶飲まねすか」
 抑揚の激しい話しぶりが、ころころと耳に転がった。手に小さなポットと紙コップを持っている。ありがたい、喜んでいただいた。
「前の方、どうなっているんでしょうね」
「さあ……」
 話をしていると後ろの車の男性も出てきた。
「食(け)ねか」
 差し出したのはチョコレートである。これもありがたく頂いた。
「どうしたんでしょうね」
 男性にも訊くと、
「この先で衝突事故があったらしい。家に電話したらニュースで流れてるって」
 情報をすでに掴んでいた。するとまだ時間が掛かる。明るいうちに着くのは諦めるしかない。災難には頭を垂れて通り過ぎるのを待つのが得策である。話をしていると、なんと三人とも同じ街へ帰ることが分かった。
「何かの縁だ。帰(け)ったら反省会でもやるか」
 コップを傾ける格好をしながらの男性の提案に、
「良いことだなす」
 女性がすぐに乗った。私ももちろん賛成。おかげで新しい友達ができた。お茶をもう一口啜ると、渋味がきゅっと口の中を引き締めた。