エッセイ

耿さんの日々

大津波

一日目

それは比較的穏やかな春の日の昼下がり、書類に目を通しているうちにうつらうつらと瞼の塞がりかけていた時だった。足元が突然揺れ、棚の上の飾り物や壁に掛けた時計が細かく震えだした。意識が覚めて地震と分かったが、どうせすぐ治まるだろうと高を括っていると横揺れが今度は縦に変わった。机の上の書類が落ちて床に散らばり電気が消え、これはかなり大きそうである。暫く揺れの静まるのを待った。

大人しくなったところで事務所に居る人たちが集まった。慌てふためいて表に飛び出した女性たちが戻って来て、
「屋上の給水塔が踊っているみたいでした」
「壁のモルタルが波打ってました」

いろんな報告をして来た。とりあえず仕事を中断し、手分けして被害を確かめる必要がある。出先に様子を聞こうと電話をかけたら一か所目だけは通じたけれどそのあとはどこへかけても回線がパニックになったらしく、繋がらない。そのまま連絡を続けさせる一方で、自分で行って直接目で確かめることにした。

特に心配なのが河口近くにある都市ガスの工場で、路面が低く地盤も柔らかいから他がたいしたこと無くてもそこだけは何かしらありそうである。さっそく車で向かったが、普通だと二十分なのに信号が停電し道路は大渋滞で、クラクションが煩く叫びあった。一向に前に進まず、気ばかりが焦る。うんと遅れて一時間近くかかった。

 

やっと辿り着くと従業員たちが大騒ぎしていた。聞くと、
「大津波警報が出たそうです」
「どのくらい」
「三メートルだそうです」
「それくらいなら大丈夫じゃないかな。でも念のため二階に避難しよう」
現場のリーダーが細かく指示をする。
「扉をぴちっと閉めたか。外へ出ている人たちには暫く戻らないよう連絡して……」

なかなかたいしたものだ。現場を任せっきりにしているが、間違いではなさそうだ。

実は、私はまだ津波を直接体験したことが無い。知らないとは怖いもので、どんなものかと幾分わくわくした気持ちで皆と一緒に階段を上ったら窓から海面が見えた。それがじわじわと上昇してくる。津波とは突然壁のように立ち上がって頭上から襲ってくるものと思っていたが、そうではなく、ただぼんやりと、驚くほどぼんやりと海面が上がってきて、気が付くと辺り一面を海にしてしまうのだった。だが、穏やかに見えても力は強い。道路を挟んだ向こうの船泊まりでは高く浮きあげられた中型船が波の上から滑り落ちてきて建物の壁をぶち抜き、柱を倒した。押し寄せた波が壁を砕いてゆく。見る間にすっかり海水に占領され、ぼろぼろになった建物が水面に上半身を曝していた。

水が黒っぽく見えるのは海底の泥を抱き込んでいるからだと、近くにいた物知りが頼みもしないのに説明した。それで止めておけばいいのに、一旦引いた水がだんだんと押し返してきた、岸壁を超えた、遊歩道が呑まれた、国道に迫ったといちいち言うから煩い。だが顔つきを見て彼なりの緊張感の現われなんだと気がついた。それなら喋らせておいた方が良い。

水嵩はさらに増えた。
「危ないな、道路を越えたらこっちにまで入ってくるよ。あの辺で止まってくれないかな」

甘い期待は残念ながら簡単に裏切られた。国道を跨いで構内に入ると水は駆け足で流れ込み、押されたブロック塀が音を立てて壊れた。波はさらに激しくなだれ込み、あっという間に周りは水浸しになった。完全に孤立状態である。喫煙室に使っていたプレハブの小屋が水に浮いて動き出した。
「ああ、憩いの部屋が……」
よく小屋を使っていた連中が恨めしそうに呟き、別の窓から覗いていた一群が、
「車が流れて行く」
 指差した方を見ると駐車場に止めてあった車が発泡スチロールのように水に浮いていた。

「誰の車だろう」
 聞いたがよくわからない。そのうち、社員の通勤用の自家用車だと分かった。
「まだ新車らしいけれど、大丈夫かな」
他にも何台かの車が浮かび始めた。車は波に揉まれてぐるぐる回り、時々壁にぶつかっては鈍い音を立てた。根こそぎ引き抜かれた植木が窓の下を通り過ぎ、土を洗い落とされた根が、もがく人の手に見えた。

増水がようやく止まった。窓から見ると、あちらの倉庫もこちらのプラントも海の中である。暫くして今度は水が引き始めた。引く勢いも強く、持ってきたものは残しても元々あったものを搔っ攫っていく。野積みしてあった資材や庭石がいくつか奪われた。庭の池にいた金魚は……多分無事ではないだろう。

波が引いた後も停電はなかなか回復しなかった。夕闇が濃くなり、不安がますます募る。非常用の発電機があった筈である。だが、動くだろうか。社員の一人が点検に走り、
「大丈夫なようです」
すぐに返事を寄越した。
「よし、稼働」
電灯が付き、建物の中が明るくなると全員から感動のどよめきが上がった。人間はやはり、闇より光の中で生きるように作られているらしい。テレビを点けると、臨時ニュースで陸前高田の街が生々しく映し出されていた。こんな映像が、よく撮れたものである。箱庭に水をぶちまけたように、街が簡単に洗い流されていく。人間の作ったもののなんと脆いことだろう。まるでおもちゃのようで、そこでは三階に居た人でさえ海水に浚われたとニュースが伝えた時には背筋が震えた。二階なら安全だと思っていた無知が恥ずかしい。よく生き残ったものである。さらに福島では原子力施設が壊れ、逃げるのも覚束ないらしい。ただ、唖然と画面を見続けた。

社員が状況を伝えに来た。
「気化プラントが稼働不能だそうです」
「どんな具合なの」
「どっぷり海水に浸かって、電気系統がやられたようです」
 気化プラントは、この工場よりもさらに海岸の近くにある。元売り会社の施設だが、運用のために社員を派遣している。ここでこの有様なのだからやられていても当然だが、そんなことを言って後で問題になっては困る、と喉元でしっかり留めた。
「復旧には、どれくらいかかるかな」
「わかりません。とにかく最大限努力しますということでした」
 取りあえずはこちらの工場の被害と客先の安全確認を打ち合わせて社員を出動させ、残った人は事務所の片付けに取りかかった。
「ガス供給をストップしましょうか」
 訊いてくる社員がいたので、
「だめだ。今ある分は最後まで流す。止めてはならない」
「もう止まっているところがありますが」
「止まっているなら仕方がない。しかしこちらからは止めない」
「でも……」
まだ何か言いたそうにしたが、ここは気合で、と睨み付けたら、すごすごと引き上げていった。

構内には津波が運び込んだがれきや折れた立木が散乱していた。下水溝から時々水しぶきが噴き出し、あちらこちらに深い水溜りができている。
客先の巡回にあたった社員が返ってきた。主だったところでは異常がないようである。
気化プラントからは、
「少なくとも今夜のうちの復旧はありません」
 と連絡があった。すると、今できることはもう無い。夜も更けた。
「明日から、とんでもない作業が待っています。今日はいったん帰って体を休め、明日に備えてください」
 それでも、現場のリーダーと何人かは泊り込むことを申し出てきた。頼もしい人たちである。
 私も帰宅することにした。工場を出てすぐ近くの川の土手を登り、上の道を歩くと足の下に広がる街は暗闇に覆われていた。停電は一向に回復せず、道路を走る車もまばらである。所々で切れずにいた信号灯の光だけがやけに鋭い。
これからどうなるのだろうか。真っ暗な空に向って手を合わせ、普段の不信心を棚に上げてこれ以上酷くならないよう神様仏様に祈った。

 

 

二日目

まる一日工場が動かなかった。気化プラントの修理を終え、電気を通すと火花をあげたのである。まだどこかが修復しきれていなかったようだ。訪れて訊くと、
「電気系統が完全に壊れてしまいました。交換しなければなりません」
「交換部品はあるの」
「東北にはありません。関東にあるそうなんですが……」
「すぐ、取り寄せてください」
 気化プラントの責任者が、隣の部屋から電話で交渉を始めた。壁を通してこちらまで聞こえる程の大きな声である。よほど気が立っていたのだろう。やがて、
「手配はしましたが、今夜の飛行機で、青森空港に着くそうです。これから受け取りに行きますが、こちらに着くのは早くて明日の朝です」
「ということは、今日も製造できないということね」
 はあ、という頼りない声を背中に聞いてすぐ都市ガス工場に戻った。
 タンクの残量を聞いたら、殆ど減っていないらしい。まだ停電が続いている。今の世の中、電気が無いとガス器具も使い物にならない。幸か不幸か停電で消費が落ち込んでいるから持っているけれど、普通ならとっくにアウト。あって当たり前の生活に慣れ、いかに便利さに甘えていたか改めて気がついた。こうなったら在庫品だけが頼りでガスの供給を続けたが、残量を知らされる度に不安が膨らんだ。仕方無くいくつかの得意先に事情を話して節約のお願いをしたが、それでも減っていくことに変わりはない。新聞、ラジオ、テレビなどのマスコミにも一般家庭向けのお願いをしたものの、この状況でどのくらいの人に届いたか、心許ない。

修理の目途も立たないうちに夜になったので、社員をいくつかのグループに分け、そのうちの一群を残して、それ以外は帰宅させた。私も自宅に戻った。

 

 

三日目

ちょっとだけの積もりで横になったらそのまま眠り込んでしまい、目が覚めると真夜中の二時、なんと部屋の電灯が点いているではないか。これは大変だ、今日こそガスが無くなってしまう。飛び起きて身支度を整え、急いで工場に向かった。ところが、土手の道を歩きながら街を見下ろすとほんの一部を除いてどこも真っ暗である。電灯が点いたのは限られた地区だけだったらしい。少し安心したが今更引き返す気にもなれないのでそのまま会社に行くことにした。

土手下の線路には、ドラム缶や自動車までもが置き去りにされて散らばっていた。波の力は、こんな重いものでも簡単に動かしてしまうから、たいしたものである。見上げると夜空には雲一つなく、しかも空気が澄み、たくさんの星に山際まで埋め尽くされていた。立ち止まって見惚れた。こんなにたくさんあったのか。満天の星に押しつぶされそうである。自然とは何と煌びやかなのだろう。だがしかし、何とも鋭い牙を人間に見せつけたものである。

会社に着いても、事務所の中にはだれも居なかった。夜が明けるまでずいぶん時間がある。宿直の人がどこかで仮眠しているだろうけれど起こすのも可哀そうだ。椅子を引き寄せてテレビのスイッチを入れた。どの局も災害情報を夜っぴて流し続けている。昨日の午後からは、解説者の付く番組が増えた。今もまた、難しそうな『お話』の後、陸前高田の街が根こそぎ波に浚われていく情景が映し出された。見慣れた筈なのに、こればかりは何度見ても圧巻である。

事務所には泥の臭いが漂っていた。建物の外は一メートル近くまで海水に取り巻かれたがしっかり戸締りをしていたので中は十センチくらいの床上で済んだ。それでも配電線は全滅で、あと五センチ浸水していればいろんな機器もやられたことだろう。応急処置で天井から何本もの電線がイカの足のように垂れ下がっていた。みっともないが、これくらいで済んで本当に良かった。

工場の中を巡回した。床に敷いたバスタオルがまだどこからか浸み出す泥水に濡れていて、踏むと気味の悪い音を立てた。お宝を机の下にたくさん貯め込んでいたのか、いろんなものが散乱している。パンフレットや小さな工具、お菓子の包み紙やコーヒーの空き缶、電気のコードやそれを張り付けるのに使ったらしいビニールテープのはしくれ、握力をつけるための運動具、何枚もの写真、他にもいろいろ……。窓の外を見るとプレハブの小屋が壁に密着し、構内にはがれきや折れた木の枝などが泥に埋まっていた。水が全部引いてくれないと、掃除することもできない。

このままで居ても仕方が無いので少し仮眠することにした。休める時に休んでおいたほうが良い。幸い応接室が空いていた。ソファに寝そべり目を閉じるといろんな光景が瞼の裏に浮かんでくる。まずは津波の到来、ぼんやりと水位が高くなりいつの間にか囲まれたのは意外だった。流される機材や車、崩れる塀、綺麗な星空……そのうちに眠りこみ、目が覚めた時には社員が出勤し始めていた。でもまだ七時、今日も長丁場になりそうである。

 

気化プラントから連絡が来たのは午後になってからである。
「今から部品交換を始めます」
 やっとか。タンクの残量はあと少し。もし部品交換が上手くいかなければ明日は間違いなく、いや今夜にもガスが切れるかもしれない。
「そうなったら、辞表でも書くか」
 腹を決めて、吉報を待った。なにしろ、技術的なことは知らないからスタッフに任せるしかない。その間にもタンクの残量は少なくなっていく。まるで、残り少なくなった蝋燭、風前のともし火……。マイナスのイメージばかりが頭の中に浮かんでは消えた。

「試運転に成功しました」
 待ちに待った連絡が来たのはとっぷり日が暮れてからだった。胸に突き刺さっていた棘が何本か抜けたような解放感が、天から降りてきた。
「では早速供給開始して」
 天使に抱かれるような思いで言うと、
「いやまだです。これから気化プラントのスイッチを入れますので、供給するのは10時頃からになります」
 こんちくしょう、とは思ったが、そこは大人、声には出さない。
「では、開始準備が整ったらまた連絡ください」

タンクの残量を確かめると、ぎりぎり間に合いそうである。それでも、実際にガスの製造が再開するまでは気を抜けない。いざ送り始めたら、途中で新たなトラブルが……よくある話である。

予告通り、本当に10時供給再開となり、社員の皆が都市ガス製造プラントの前にいた。供給の圧力が上がると、ポンプの回転が始まることになっている。やがて機械が動き出した。その瞬間、社員たちから歓声と拍手が起こり、万歳と誰かが叫ぶとすぐに全員が唱和した。私も一緒に叫んだ。
「製造の人は、申し訳ないけれどこれから仕事です。他の人は、ご苦労さんでした。明日からやらなければならないことはたくさんありますが、とりあえず今夜はこれで帰宅してください」

もう一度万歳が起こった。誰の顔も笑顔で緩んでいた。多分私の顔も……構わない、明日の朝、冷たいシャワーでも浴びて引き締めよう。今夜はもう、とにかく、疲れた。