エッセイ

耿さんの日々

雑踏のまち

列車の扉が開いていきなり雑踏の中に放り出された。相変わらず騒がしいまちである。たくさんの足音やスピーカーの声が、鉄砲水のように溢れかかる。空気も生暖かい。誰かの吐き出したものがまた私の体の中に染み込んで来るのだ。思わず息を止めた。

改札を出て地下鉄に乗り換えた。流れに任せて歩いているとあちらこちらから聞き覚えのある訛りが聞こえてくる。忘れていたイントネーションが耳を擽りながら、しぶきを上げた。かからないように身を避けて心に堰をかけた。私はもうこの土地の人間ではない。仕事だから来ただけである。

すぐに目的の駅に着いた。かばんから手紙を出して指示された出口を探した。それはすぐに見つかった。人波に呑まれながら地上に出ると新しい喧騒が待ち構えていた。さすがに大阪一の繁華街である。昼下がりと言うのに何処から人が湧き出してくるのか不思議なくらい混雑している。私が離れる頃、この一帯は大きな火災に襲われ立ち入ることを禁じられていた。つい最近、すぐ近くでまた一角が焼けたと新聞に報じられたがそんなことを全く感じさせない。生活への執念が通りの端から端まで満ち溢れて、渦を巻いている。

道に迷った。一緒に送られてきた地図を見ながら歩いて来たつもりだったが、気がつくと同じところをぐるぐる回っていた。仕方がないので通りがかりの人に尋ねた。
「何やて、こんなとこにそんなんありますかいな。あんたあほちゃうか」
厳しく罵られた。気を取り直して目の前の店に入り同じことを訊いた。
「わてもここの生まれやないよってな。ちょっと待っとくんなはれ」
唯一頼りの地図を持ったまま奥に入っていった。なかなか出てこない。ほかの客が肩をぶつけて知らない顔で出て行った。店員が訝しそうに私の顔を覗き込む。胸の内で荒波が砕け、不安が高まって弾けそうになった時、
「分かりましたで。この先二つ目の角を曲がったとこらしおます。ついといなはれ」
「よろしんですか。仕事中やのに」
自分の言葉に驚いた。脳髄がまだ昔を覚えていたのだろうか。
「困ってるときはお互い様でんがな。こっちだす」

目的の場所は通りから少し奥まったところにあった。その前を、両側の店の商品が岩屋のように占領していた。分からなかった筈である。
「いや、おおきに。ありがとさんでした」
何度も繰り返して言った。方言が躊躇いもなく口からこぼれてくる。人の優しさに触れ、堰が崩れて、澱んでいた水が一気に流れ出たようだ。
「捨てたもんでもなさそうやな」
ふるさとを見直した。仕事を終えたら昔の友人に電話でもしてみようか。人出が急に減り、通りは、広い河口のように穏やかになった。空気が、ほんの少しさわやかな香りを込めているように思えた。