エッセイ

耿さんの日々

転身

「八戸に来ないか」

義父から最初にそんな声をかけられたのは、結納こそ済ませたもののまだ結婚式も挙げていないうちだった。心にも無いことを、とその時は適当に受け流しておいたが、式を終え、やがて子供ができ、出産のためにかみさんが約半年帰省することになった。その間にどう言い含められたのか、赤ん坊を連れて帰って来ると今度はかみさんが同じことを言い出したから驚いた。結婚前には、
「私は三女、投げられっ子なの」
と言っていた。だから義父の言葉も本気にできる訳がない。真意を測りかねて、
「帰りたいのか」
「そうではないけど……」
そう言えとことづかったから、ただ伝えただけ、らしい。帰省中にそう伝えざるを得ない事情もあったようだが、それは無視してすぐに忘れた。

学生時代、私は大学院に進んで将来は学者になることを夢見ていた。専攻したのがバイオテクノロジーの分野で、特に興味を持ったのが石油蛋白である。原油の中にある成分を食べて育つ微生物を使って石油精製を行い、一方その菌体を回収して人間の食料資源にしようという構想は、私には夢の研究と思えた。だが、家計がそれほど豊かではなかったのを当時の私も十分心得ていて、いつまでも脛かじりをするわけにもいかず、企業に就職する道を選択せざるを得なかった。それでも研究所勤務を希望したところ、二年後期待していた部署に配属され、「夢への糸がまた繋がった」と、この時は飛び上がって喜んだものである。しかしその企業の中では当初望んでいたような研究などとてもできず、それならば四十代で博士号を取り五十代になったら地方の大学か女子大あたりに転籍して栄養や食品の薀蓄をいっぱい振り撒いた本でも出したい、と目標を変更した。今から思うと甘い考えだが当時は真剣で、だから頭に描いていた将来図の中には八戸に移り住んで事業に関わるという要素が入り込む余地は全く無かった。

ところが状況が突然変わった。研究所の上司で先輩として尊敬し結婚式の仲人もお願いした方が癌で急逝してしまい、また仕事にも行き詰まりを感じて気持ちが落ち込んでいるとき、再び義父から誘いの声がかかった。優しい声で、それがいかにも魅力あることかのように。まるで悪魔の囁きで、顔を見れば狸に騙されているのかと疑念も湧かないではなかったが、ふらふらと吸い込まれて、
「そんな人生もありですかね」
つい承諾してしまったのである。

それからが大変だった。会社の同僚の中には「俺が再就職するときはよろしく」などと言う人もいたが、いつか論文を見てもらおうと思っていた大学の教授からは「落ちこぼれ」と冷たくあしらわれ、実家の家族や親戚は「せっかく一部上場企業に就職したのに」と皆反対し、大学時代の友人たちに至っては「都落ちしなくても」とまで言う始末である。確かに冒険だが、ここまで反対されると逆に私の意地が首を持ち上げ始めた。
「やってやろうじゃないの」

それから三十年。八戸は幸いなことに良い街だった。中には辟易するほど強引な人もいるがそれは何処にいても同じこと、総じて穏やかな人情に触れ、新しい友人もたくさん増えた。食材が新鮮で、今でも朝市で仕入れたものを自分で調理するのが楽しみの一つである。企業の研究所にいた頃ジュースやデザートの新製品開発に携わったことがあり、その時は糖度のコンマ1パーセントの差を味わい分けたものだが、神経を研ぎ澄まさないで食べるのが一番幸せな食べ方だということも、八戸に来てからの経験で知ることができた。

バイオの研究から燃料屋への転身を、「まったく異分野、百八十度違いますね」と言う人がいるが、「鍋の上の仕事から、下の仕事に変わっただけですよ」そんな風に説明すると不思議に皆に納得され、自分でもそう思ってしまう。私としては現場の仕事から経営に変わったほうが大きな変化なのだが、それも、目標を持ち細かい計画を立てて一つずつ確認しながら実現していくという点では何ら変わりがなく、ただ扱う材料と手法が変わるだけで、そう考えれば転職などたいしたことではなかった。

多くの人に助けられ、事業も、前任者達が破綻寸前で放り出した分野の回復も含め順調に運営できたし新しいことにも手を付けることができた。債務もかなり減らし、あとは次の世代に引き渡す準備を整えるばかりである。最近気付いたことがある。年配の人は皆私と同じように考えるのかと思っていたが、責任感から、とか生涯現役で、とかいろいろ理由をつけて、今居心地の良い立場を離れたがらない人が意外と多い。まあ人それぞれ、せめて若者潰しにならないよう祈りたい。好みの違いもあるだろうが、古くからある組織の偉い人に祀り上げられて収まっているより、自分なりに描いた夢を形にすることで悩んでいる方が、私は楽しい。

東北には高校の卒業旅行で松島まで来たことがあり、その時「最北の地まで来た」と感慨に耽っていたことを思い出す。八戸はそこからさらに北へ三百キロ、子供のころは地名すら知らず、今から思い返すと、よくもったものだと思う。住めば都とは本当で、こちらの気候や風土に体が馴染んだ今では、たまに関西へ戻るとその蒸し暑さや人の多さにどっと疲れてしまう。私の人生もあと少し。学者にはなれなかったし、ここが終焉の地となるかどうかもわからないが、生きているうちにもう一度転身を、と密かに目論んでいる今日この頃である。