エッセイ

耿さんの日々

心地よい苦味

別に気がついていない訳ではなかった。当然、むこうが待つものと思っていたのだ。国道沿いのカフェレストランの前でのこと、のろのろと駐車場から頭を覗かせていた車がいきなり飛び出そうとした。ブレーキを力いっぱい踏み込むと後輪がスリップして甲高い叫び声を上げ、体が大きく振れた。がむしゃらにハンドルにしがみついていると相手の車が急に膨らんで見えて何もかも分からなくなった時ようやく車が止まった。

危ないところだった。お互いの間にはタバコ一本がようやく入るくらいの隙間もあったろうか。改めて運転席の人を見た。年配の男性である。あちらも驚いたらしく、目と目を合わせてお互いに意味もなく頷きあった。

どちらにも被害はなかったようである。その人はゆっくりと道路に出て、慎重すぎるくらい前後を確認して走り去った。見送って溜め息を吐いたら緊張が緩み、肩と首の血液が体中に散らばった。

まだ気持ちが昂ぶっている。駐車場に車を停めて店に入り、窓際の席に座って外を眺めた。他に車は無く、私のがただ一台、たった今の出来事を忘れたように済ましている。

コーヒーを頼んだ。マスターがサイホンの準備をしながら、 「ブレンドでいいですか」と訊いた。
「ええ、少し濃く入れてください」 やがて焙煎の効いた香りが目の前に届けられた。一口含むと心地よい苦味が口の中に広がった。まだ戻りきっていなかった血液がさらに散り、頭が軽くなった。
「危なかったですね」 と、マスター。 「見ていたの」 コクンと頷いてそれ以上何も話しかけてこない。だがこの味だけで言いたいことは分かる。無理をせず気を取り直し、注意して残りの道程を行くことにしよう。