エッセイ

耿さんの日々

山登り

滑らないよう爪先に力を込めた。古びた運動靴が、足に馴染んで大地を噛みしめる。石ころだらけの道を大股で歩くと薄氷がばりばり音を立てて割れた。尾根に出ると青空が威張って圧し掛かり、いきなり宙に放り出されたような錯覚に足元がたじろいだ。

深く息を吸った。山の精気が鼻から飛び込んで来て、吐息の白い柱がいくつも口から伸びては消えた。遠くを眺めると他のメンバーは随分先に居るらしく姿が見えない。
「おおい!」
叫んでも返事は無く、山波に声を吸い取られて静寂が響いた。足を速めた。

山登りは二十数年振りである。思い出の博物館にしまい込んだつもりでいたが、たまたま宴席で知人から誘われ酒の勢いも借りて同行すると返事をしてしまった。懐かしさと体力への不安で次の日から落ち着かなかったが、来て良かった。胸の奥に残っていた消し炭が再び燃え上がりそうな予感をひしひしと感じている。

社会に出てから「やらなければならないこと」に追われ、「時間の有効活用」というスローガンに振り回され続けてきた。いつのまにか家事や趣味から遠ざかり仕事べったりの日々に慣れ、男は「無駄」なことをしないと勝手な屁理屈に酔い痴れていた。が、最近心境が変化しかかっていた。それも貴重なのではないか、と。だから誘いにも乗った。

メンバーの中には見知った人も居た。地元の人と外国で鉢合わせをしたようなもので、意外な出会いを喜び親しみが増した。歩きなれた人が殆どで、最初は世間話もしていたが中腹にかかったあたりから誰もが黙々と歩いた。他人に合わせようとせず、急き立てもしない。ひたすらマイペース。気持ちの良いパーティである。歩き続けると孤独になる。それがたまらなく清々しい。

道が細くなった。両側に谷底が見える。見下ろすと吸い込まれそうだ。前を向いてやじろべえの真似をして歩いた。大岩が道を塞いでいた。手がかりを探し、「よいしょ」と体を引き上げる。力を入れる時つい声を出してしまうのが年寄り臭い。いつの間にかそんな年令になっていたのだ。木の枝が突然現れて額をぶつけそうになった。虫の卵らしい塊がぶら下がっていた。怖い顔をして睨みつけたが、塊は知らん顔をしていた。

岩を越えると景色が変わった。天上の紺碧に白い糸が幾筋か流れ、傾いた地面に小さな松の木がしがみついていた。その向こうには潅木の混じった草原が広がっている。山頂は近そうだ。心が逸った。やがて、「おーい」と遠い声。急かされたように走り出すと蹴飛ばした石が谷底へ転げて落ちた。

仲間達の姿が見えた。一人がこちらを向いて手を振っている。
「おう」
と答え、さらに走った。
「ご苦労さん」
「お疲れさん」
口に出す奴、目だけで喋る奴・・。山仲間に飾り言葉が要らないのは昔と変わりない。

山頂に立つと遠くの山がいくつも重なって挨拶を寄越してきた。胸が破裂しそうなくらい息を吸い込んだ。山裾から吹き上げて来た風が甘い。若い頃もこの匂いを嗅ぎたくて何度も苦しい思いをしたのだった。どうやらまた病みつきになりそうである。次の休みには登山靴でも買いに行こうか。
そうだ、とんでもないことを思い出した。子供達が幼い頃、
「いつか山に連れて行ってやる」
と約束したのだった。その頃はまだ慕われる父親だった。でも叶わなかった。他にも、結婚記念日や誕生日のお祝い、出張のお土産、ちょっとした外出への同行など、いったい幾つ期待を裏切っただろうか。小さな反故を積み重ね、家族との距離が広がった。家族と居る時間は決して人生の「無駄」ではない。分かっていた筈なのに忘れていた。山は大切なことに思いを至らせてくれた。帰ったら取りあえずは食事にでも引っ張り出そうか。今更相手にされるか自信は無いが、でも雰囲気が整えばやがて家族登山と洒落て罪を償うことに励むとしよう。靴や衣装を揃えられたら申し分ない。山男の姿を見せれば父親の存在感が回復するかもしれないし、そんなことより老後がもうすぐそこに控えている。